青木淳で考える

(第九話)多木浩二で考える

(第五話)で自分の「おばあちゃんの家」の思い出を書いたのはだいぶ前になるが、ほとんど同じ文章に出会ったので引用したい。 多木浩二の『生きられた家』(田畑書店、1976年)より。 子供の頃、かなり広い家に住んでいた私は、使われていないいくつかの部…

(第八話)梨園

第五話で自分の昔話をして、「未分化」のときがあったと書いた。そうしたら友人のYが共感してくれて、それについて話し合った。 子供の頃、「そこ」には秘密基地があって、いつも遊ぶ友達と「そこ」でいろんな遊びをした。「そこ」というのは物理的には近所…

(第七話)青木淳の正しい読みかた

なんだかよくわからないうちにマジメな話ばっかりしている。困った。くだらないことを書きたいよう。でもまじめができない人に笑いなんかできるわけないから、今は地盤堅めに精を出すしかない。不本意だがそういうもんなのである。 で、青木淳は不思議なこと…

(第六話)先達のことばを拝借して、大事なことを一気にいう

次の三つは、人が「自分で考える」瞬間について、いろんな言葉で書かれたものだ。 何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみること…

(第五話)とつぜん、思い出

またいろいろ考えているうちに、次に何を書くんだっけ、と忘れてしまう。思い出せない。それで読み返すと、柔らかい言い回しを使ってはいるけど、なんだか難しいことを書いている気もしてくる。難しいまま進んでいくと書くほうも読むほうも疲れるので、とつ…

(第四話)「原っぱ」論はネコの会話だ

僕が『原っぱと遊園地』を読んでめちゃくちゃ驚いたのは「まったく違うことを考えているはずなのに、出てきた答がほぼ一緒」だったからだ。青木淳は美術館からアプローチし、僕は「畏れ」からアプローチしたが、「よい空間」も「よい空間が生まれるわけ」も…

(第三話)僕は神社に向かった

正確にいつからかはよくわからないけれど、僕の頭は神社へと向かった。過去のブログを見る限り2006年4月には「感動」や「畏れ」といったタームが見られ、同年9月には「美とはなにか」「明治神宮の構造」といった記事に発展している。10月になると都内の神社…

(第二話)「原っぱ」と「遊園地」

もしディズニーランドの園内で生まれて、その内側がすべての世界で、死ぬまでそこで暮らすとしたらきついなぁ。きっと思春期過ぎた頃から「この世界がすべてな訳がない!」という妄想が肥大化していって、ある者は塀を上ろうとして捕まり、ある者はわけもわ…

(第一話)青木淳さん、それです!

『原っぱと遊園地』(青木淳著/王国社)を読んで、僕は自信を持って言えることがひとつある。「この本を読んで最も感動したのは僕である」あるいは、それが生意気に聞こえるなら、「この本を読んで僕のような感動のしかたをした人はいないのではないか」だ…