(第四話)「原っぱ」論はネコの会話だ

僕が『原っぱと遊園地』を読んでめちゃくちゃ驚いたのは「まったく違うことを考えているはずなのに、出てきた答がほぼ一緒」だったからだ。青木淳は美術館からアプローチし、僕は「畏れ」からアプローチしたが、「よい空間」も「よい空間が生まれるわけ」も、ほぼ同じだった。


「どうして小学校としてつくられた建物のほうがいい美術館になってしまうのか。」が『原っぱと遊園地』の出発点となる問いである。廃校となった小学校を美術館として使ったときのほうが、美術館としてつくられた美術館を使ったときよりもずっと生き生きとした展示になる、という感覚が青木淳にはあった(*)。青木淳はその答として、「小学校」が廃校を通して「原っぱ」となったから、と考えた。では「原っぱ」とは何かというと、
「人間の感覚とは一度切れた決定ルールによって生成し、しかしその決定ルールが根拠を失った空間」
のことを言うのである。もう少し説明すると、「原っぱ」は一度機能的に宅地造成されたものが放置されて雑草が生えまくってしまった空き地であり、これと同じように、廃校になった小学校は、「敷地の形状と、方位と、採光条件と、求められた教室の大きさと数と、質素な予算と、法規制に対する最適解として割り出されただけの小学校」が、その「つくられた意図を失っている環境」、ということだ。「原っぱ」が「遊園地」ではない「自由」をもたらしてくれることは前に書いた。青木淳の主張を単純にまとめると、
「自由がいいよね」
「うちらのことを思ってくれるのって結局は束縛だよね」
「で、かえって何も考えてくれてない時のほうが構いたくなる」
「そうそう」
というネコの会話になるのである。続ける。
「でもただ考えてくれないってだけじゃ物足りない」
「そうね、自分を持ってるっていうか夢を追いかけてるというか‥‥」
「こっちとは関係ないわからない世界でがんばってる姿はかっこいい」
「振り向かせたくなる」
「でたまに振り向いてくれると、もぅだめ、好きになっちゃう」
女子になってきた。が、これが女子だと言うと反論があるだろうからそういうのは避けて、ネコだということにしよう。


というわけで、こちらに構ってくれない空間が「よい空間」なのである。「よい空間」は、一度人間とは別次元のルールに従って徹底的につくられ、その本来の意味が失われることで完成する。なので青木淳の野望は、それを建築家としてどうやったらつくれるか、という困難に立ち向かう。
一方、僕は「神社」から入った。しかし僕もほとんど同じ結論に達した。つまり、「よい空間」は人間とは無関係にできているということだ。僕はそれを「モノそのもの」と呼んだ。長くなったので、その辺の話は、次回。


*芸術の変化も考えると面白い。だって絵を飾るならやっぱり美術館の方がいいと思う。