『妹島和世論 マキシマル・アーキテクチャーⅠ』刊行のお知らせ


妹島和世論 マキシマル・アーキテクチャーⅠ』服部一晃 著

NTT出版 2017年3月24日発売 定価2400円+税
「建築・都市レビュー叢書 01」

全国書店にて取り扱い中 Amazonこちらより


「序」より

 だが、私はこうも思う。そもそも作品にしよう、亀裂を生み出そうという心のうちに、あるつまらなさが潜んでいるのではないか――。何かを切り捨てることで得た純粋さにすがって、亀裂を仕方ないものとして諦める。そのような下部構造の上にだけ作品があるのだとしたら、作品とはずいぶんと安全な高みであぐらをかいているものだ。安心しきった作品は、平気で汚れや埃を払い落とし、事も無げにわかりやすくなる。わかりにくい世界でわかりにくい人生を送っている私をなかったことにして、ひとり得意顔をしている。そう、作品を成り立たせている当のものである「亀裂」にさえ疑問を持たなければ、作品をつくることは容易なのだ。
 作品をつくること――それは私の一部を捨てることである。ではこの亀裂に、私はどうやって向き合えばよいのか。



 修士論文妹島和世について書いたのが7年前、ついに本になって、NTT出版より2017年3/24発売です。そもそもなぜ書いたのかと言えば、妹島和世の作品分析をしたかったからではなく、「いったい自分は建築史のなかのどこを生きているんだろう?」という私自身の率直でありふれた疑問について考えたかったからです。なのでこの本は、私の時代に否応無しに君臨した妹島和世という存在を梃子の支点として、1975年以降という新しい時代の建築史を描いたり、時にはもっと古い話題にまでアクセスしています。そして、先の問いに一定の答えを出しています。それは磯崎新が『日本建築思想史』で妹島和世を取り上げながらも、その正体を一切掴めていなかったことに対する、勝手な回答のようなものです。


特にすべての建築学生、すべての30代以下の若い建築家に読んでもらいたい、そして同じ時代を生きる者として何かを一緒に考えていきたいと、強く思っています。

五原路記 閉店!

またしても突然ですが、上海生活専用ブログとしてつくった「五原路記」を閉店しました。
作ったときは、突っ込みどころの多い国に来たしつらつら日常でも書くか〜と思ったのですが、残念なことに日常系ブログを書く能力がありませんでした。
更新滞ってしまうし、だるいし、いっか。という感じで閉店としました。
友人の真似をしてブログ始めて見たものの続かず……という、10年前レベルの理由ですね。


さて、このブログ本編もなかなか更新することができなくなって、放置状態になってしまっています。書くといって放置された話題もたくさん。
また一念発起してここに記事をバンバン上げる自分の姿も少しイメージしづらくなってきたので、別のプラットフォームをいま構築中です。
そこができたら、ここは野ざらしになります。


心機一転、というのが理由の半分ですが、残り半分はもう少し切実な自分だけの話として、イメージが弱いというのがあります。
はてなはなんとなく議論向きで(よくわかっていなかったが実際そうらしい)、文字に向いている感じがします。
書くことは相変わらず好きですが、それだけでいいのかな?という気分もあり、新しいプラットフォームは建築家らしくイメージにもう少し重きを置くことにしています。
また、あっちゃこっちゃでよくわからないものを作ってしまう性格なので、ちょっとアーカイブしておきたいな、という気持ちもデザインに反映しています。よくわからないHTMLとやらをいじってみて、ごちゃごちゃやってます。
それから何より、更新頻度を上げる、少なくとも長期間書かないということをなくすようにしたい、というのは昔から思っていることですが、これが一番の難問です。リズミカルに生きる人にはできることですが、リズムが乱れがちな人間には大層難しい。ハマったらぐぐぐっとやるんですが、ちょっと間が開くと戻れないというのは、なんか損をしている気もします。リズムを作るということをしたい。これも「書きたくなる」デザインにして自分を鼓舞しようと考えています。

完成したら、引っ越します。

突然ですが、上海での生活がスタートしたので、専用ブログ始めました。


『五原路记』
http://d.hatena.ne.jp/hattorikazuaki+shanghai/


1年ほったらかしにしてしまったけど、こちらはしばらく続ける予定です。よろしく!!

音楽における足し算(0)

音楽における足し算・・・またしても「足し算」である。いま、「強烈に足し算的な音楽」にハマっている。


僕にとってアニメは2年間の冒険だったが、音楽は20数年のあいだ好きであり続けている芸術だ。いわゆる雑食で、マニアックへと突っ走ることも多かった。御茶ノ水のジャニスを定期的にうろついた。趣味はころころ変わったが、トップチャートには目もくれず「とにかくヤバいこれはすげえみたいな音楽」を求めていた。そういう音楽ファンはたくさんいることだろう。僕もそのうちの一人だ。


これから、現在興味を持っている特殊な音楽について書いてみようと思う。でもその前に、自分の音楽遍歴というか、もっと大きくいえば人格形成に間違いなく影響を及ぼした音楽たちを取り上げておこう。というのも、「こういうのを聴いてきて今それかよ!!!」っていう後々の笑いのためだ。ニコニコのタグ的にいうと「どうしてこうなった」である。そのぐらい落差があるのですよ。
というわけで覚えている&Youtubeにあるものから自分史的時系列15選!!!!! おまえの音楽趣味なんて興味ないよ!という人は今回飛ばして全然OK!!!!!!(←DOMMUNE的エクスクラメーションマーク使用法!!)

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1.La Mer / Claude Debussy(1905年)※抜粋

子供時代の成長する脳のシワに深く刻み込まれてしまった。海面を走る風や光のざわめき、すべての細かな音が折り重なるドビュッシーの最高傑作!!印象派音楽の完成形!!!!!


2.Tonight, Tonight / The Smashing Pumpkins(1995年)

中2以来変わらず一番好きなバンド!!!なんというか、怖いしかわいいしキモいし心優しいという、スマパンとしかいいようのない形容しがたい音楽!全世界で1000万枚以上売り上げたモンスターアルバムからトップを飾る曲「Tonight, Tonight」!!!


3.Great Hosannah / Kula Shaker(1999年)

いけすかないイケメンアイドル野郎みたいなルックスであるにも関わらず、インドに傾倒し危ない宗教的発言を繰り返したクリスピアン・ミルズ!!サイケでロックな解散前の2ndアルバムから「Great Hosannah」!!日本語に訳すと「おお偉大なる神よ!!!」危ない!!


4.River of Orchids / XTC(1999年)

全曲珠玉のひねくれメルヘンチックポップス『Apple Venus Volume 1』から幕開けの1曲!!謎いオーケストレーションにどういうノリで歌ってるのかよくわからない歌!素晴らしい!!


5.Jumbo / Underworld(1999年)

ダンスミュージックはほとんど聴いて来なかった中でこの曲の美しさには大いに惹かれてしまった。水や緑や空気や光が溢れる、環境音とシンセサイザーのスペクタクル!!!アルバムの滲んだ青が目に焼き付いている。だがどこかに紛失した!!!


6.Everything in its right place / Radiohead(2000年)

もはや説明不要の王者Radioheadから一枚選ぶとしたら確実に『KID A』。最初の1音で圧倒的不穏空間に体ごと持っていかれるこの経験は衝撃的。ちなみに1998年大リーグに移籍した日本人投手の背中に「KID A」とあったのは予言ではなく彼が木田優夫投手だったからだ!!!


7.Baby's got sauce / G.Love & Special Sauce(1994年)

オーガニックでブルージーで呑気なヒップホップといえばGラブ!!大学入ってから愛聴!受験終わって気が抜けたのだろうか!!そんなことはない!!!!


8.マンホールシンドローム / EGO-WRAPPIN'(2004年)

洋楽漁りから邦楽に目を向けさせたのはEGO WRAPPIN'の『Merry Merry』だった!!なんだ、日本面白いじゃん。こんな音楽がチャートアクションしちゃうの!?というところから始まった日本回帰。この曲も好きだけど最高なのは本当はこれの次の曲「林檎落花」という!!!!


9.Hermeto's Dream / Medeski, Martin and Wood(1995年)

ジャズよりジャムバンドにハマってしまった!!こいつらのヤバすぎる音源はかなり網羅的に聴いた!この疾走する超絶グルーブと絡みつく変態ベースの一音一音が脳髄を切り裂いていく!!!!!


10.なんてったの / Fishmans(1992年)

現代日本を遡行すればまず行き着くのが我らがフィッシュマンズ!!この世界観にとりつかれたらあまりに危険!!!気持ちよくなってるあいだにぼんやりしてきて死にたくなってしまうかも知れない恐ろしさ、僕らはここから逃げなければいけない!!!ああでもずっとここにいたい!!!!!


11.Sanfona / Egberto Gismonti(1980年)

南米の変態ギタリスト兼ピアニスト兼作曲家、ジスモンチ!!!このメロディかっこいいよおお!!へっぽこなリズムいいよおおおお!!!!


12.Memory's Tricks / Brad Mehldau(1999年)

パリのサル・プレイエルでの公演に当日券買いに行ったらあっさりはじき出されたのも良き思い出(?)。このクラシカルな響きのピアノ、徐々に恐ろしいほどの変態リズムへと移行していく様は圧巻!!!!左手がぐりぐり動く!!!ジャズピアノソロナンバー1だ!!!


13.Nealization / Soulive(1999年)

我が全身が喜んでいる!!!!ジョン・スコフィールドの超絶クールなギターソロで昇天まちがいなし!!!!ジャズファンクといえばそう、ライブ!!!!


14.Birds of Fire / Mahavishnu Orchistra(1973年)

うおおおおあああなんじゃこのリフううううう!!!とりあえず耳血噴出必死!!!こんなサウンド聴かされたら鳥も燃えるだろうよ!!!


15.The Way Up / Pat Metheny Group(2005年)

「完璧」ということばはパット・メセニーのためにある。なにせナマ楽器をすべて機械制御し、自動演奏とセッションまでする男だ!!!!そして「完璧」とはテストで100点を取るということではないこと、最高にクリエイティブだということをこの曲は証明する!!!!!

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この口調気に入った笑 こんな口調で建築も紹介すればいいのか!
というわけで、まぁ酒や女の香りのしないモテなそうな選曲です。音楽ファンの胡散臭さ出ちゃってます。でも意外と強く印象に残る曲はセールスがいいものだったりする。マニアックなものはほとんどなかったです。


という、わりと高級な趣味だった人が最近ハマっている「強烈に足し算的な音楽」について、次回から話をしよう。

足し算芸術としてのアニメ(6)

アニメとは足し算によってつくる芸術であり、その足し算には3種類ある。それぞれの足し算は、与える効果が違う。


1)「描き込み的足し算」→「没頭」
2)「衝突的足し算」→ 「ショック」(デペイズマン的〜は言いにくいので修正)
3)「装飾的足し算」→「話題」


没頭、ショック、話題といえば、マスカルチャーである。それは映画、TV番組、スポーツといった大衆娯楽が人びとに与えるもの。そして人びとが欲するもの。アニメも大衆娯楽のひとつとして、没頭、ショック、話題を提供する。アニメが大衆娯楽であることと、アニメの表現が足し算的であること。そのことだけから結論を急いではいけないが、「マス(大衆)」と「足し算」には深い深いつながりがあるに違いない。


その5で、アニメ表現が足し算的であることは収益構造がそうなっているからだと言った。ビジネス畑の人間じゃ無いので幼稚かも知れないけれど、さまざまな「作品」を次のように分類してみる。



◯A〜Cの「作品」は次の点によって定義される。
A:制作費が高い。売れないとダメ。
B:制作費が安い。売れなくてもOK。
C:制作費は関係ない。売り物ではない。
「音楽・マンガは売れなくてもOKなのか?!」「建築作品は制作費関係ない・・??」とか疑問噴出かも知れないけど、そういうことではない。A・B・Cの横に書いた作品のジャンルはあくまでホームポジションといったところで、状況や視点によって作品の置かれる位置は変わる。


たとえば「マンション」は、それを設計した建築家にとっての「作品」ならC系列。ディベロッパーにとっての「作品(=商品)」ならA系列になる。建築家にとってはそのマンションが売れようが売れまいが関係がなく、ディベロッパーにとっては売れるかどうかに社運がかかっている。もちろんヒットすれば建築家は次の仕事を得やすいかもしれないが、マンションが売れたことによって直接収入を得るわけではない。これが「マンション」ではなく「個人住宅」だったとすれば、なおさらその作品は商品ではない。建築家にとってもクライアントにとっても、住宅作品は売り物でない。
B系列の「音楽」「マンガ」「本・雑誌」は趣味でも作れる。初期費用が安いので、失敗しても大きなダメージはない。だからこれらのジャンルには「同人」という活動形態が花咲くのである。だが、例えば巨額の費用をかけて広告を打った音楽作品は、大手レコード会社にとってはA系列になる。そのときメジャーアーティストは作品が売れることによって給料以外の収入を得るし、大コケすれば次は予算がつかないという意味でレコード会社と一蓮托生だ。だが、仮にメジャーの舞台で敗れ去ったとしても、音楽を作ることはいつだってできるのだ。
「アート」がなぜC系列なのか、アートとは内なる衝動が作る作品であって頼まれて作るものじゃない。その通りで、アート作品はそもそもB系列にある。だが、売れるかどうかもわからない作品にとんでもない時間と労力をかけて一生を過ごすというのはほぼ無理だ。芸術家という職業で生きていくには、作品を売る前に「製作者(自分)」を買ってもらう必要がある。これが「パトロネージ(Patronage)」である。


◯何が商品か(何にお金が支払われるか)。
A:「作品」。
B:「作品」。
C:「製作者」。
ようするに、C系列は少し変なのだ。クライアントは世界に一つしかない、まだ見ぬ作品を買う。そのために実績や経歴を判断材料として製作者を買う。いやいや、A系列でもスポンサーがまだ見ぬ作品のために製作者にお金を支払っているではないか?と思うかも知れないが、それは購入ではなく投資である。投資は回収しないといけない。それはスポンサーにとっての「趣味」ではなく「ビジネス」である。投資にはリスクがあるため、たとえば最近のアニメ作品の製作は「製作委員会方式」という形態を取るのが主流である。投資リスクを分散しながら、出資者は各種権利ビジネスを展開するのだ。反対に、映画製作への資金提供であっても投資というより趣味的な購入(=寄付)という場合もある。昨年話題だった映画『サウダーヂ』の制作費の多くは、見たいから助けたいという寄付金で賄われている(らしい。まだ見てないはやく見たい)


◯最初の最初は何から始まるか。
A:魅力的な企画をプレゼンし、出資を募る。
B:とりあえず作る。
C:実績がないのに頼まれる。
C系列はかなりおかしなことが起きている。なにせ実績のない人間に大きな買い物を頼むのだ。「家族が大金持ち」の場合この跳躍が起こるかもしれないが、そうでもなければふつうA系列やB系列から始める。建築家の場合、B系列のようにとりあえず作ることもできないので1作目が実家というのはよくある話だ。また、若手建築家にとってのB系列は各種アイデアコンペやUNBUILT(建つ見込みもないが自分のビジョンや理想を描く絵)にあたるだろう。さらに言えば、これからの建築家はA系列も増えていくかも知れない。とくに、既存ストックを利用した改修や運営は新築と比べて少ない資金・少ない制約で始められる。たとえばマイクロファンディングサイトのCAMPFIREを利用した資金集めでも、まだ少ないがいくつか建築系プロジェクトが実現している。株式会社ツクルバによる<co-ba>プロジェクトなどはその先駆けであり、建築家のあり方を押し広げていくひとつの流れを作り出している。


◯どうやって2巡目にいくのか。
A:ヒット作をつくらなければいけない。「数字」がよければ次がある。
B:売れたらラッキー、売れなくてもまた「頑張ればいい」。
C:「作品」が誰かの目に気に入れば仕事が来る(かもしれない)。
アニメの話、表現の話からだいぶ遠ざかってきたようだけど、ここまでの議論こそが表現に関係してくるのだ。アニメは大勢の人に見られなければいけない、ということは多くの人が興味を持たないといけない。ここで話は一周してくる。多くの人の生物的本能に働きかけ熱中させ没頭させる「描き込み的足し算」、多くの人の目を振り向かせる「衝突的足し算」、多くの人の互いに違う興味を取り込む「装飾的足し算」。これらは共通して「多くの人=マス」を対象にした手法なのである。どれだけ売れたかという意味でのドライな「数字」が次回作へとつなぐ。つまり作品自体の革新性や独自性といった価値そのものが重要なのではない。作品自体の革新性や独自性が呼びこむ人の量が重要なのだ。「商品住宅」が様々な意匠をまとったサイディング(外壁仕上げ)、主婦に受ける高性能キッチン、お父さんのための隠れ家である書斎、おじいちゃんのための庭、勉強が捗る子供部屋、などなどといった支離滅裂な要求を満たすため足し算的表現を取るのは、それがマスを対象にした商売である以上、当然の法理なのである。
一方で、C系列では作品そのものの内容が2巡目へのきっかけとなる。もちろんどこにも発表しない個人住宅では意味がないが、各種メディアに掲載された作品の内容を見て次のクライアントはやって来る。この場合は逆に、過去に建築家がどのくらい儲けたかはあまり関係がない。こうして建築作品は内容が際立っていることが必要になってくる。誰もが安心して適度な楽しみを得られる足し算的娯楽であるよりは、ほとんどの人が見向きもしなくても誰かの心にヒットするもの。それでいいのだ。


ここでひとつ、収益構造が表現と密接に関係しているという議論をふまえて、批評家・多木浩二の言葉を思い出してみよう。


「俗なる家と建築家の作品の間には埋めがたい裂け目がある」(『生きられた家』1976年)


当たり前だ!

足し算芸術としてのアニメ(5.5)

勢い良く「さぁその6にいってみよう」とか言ったものの、ちょっと休憩したくなったのでオススメアニメを勧めるという趣旨に戻ってみる。
今回は趣向を変えてSF以外のものをピックアップしてみる。

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◯ドラマをどう組み立てるのか
CLANNAD 〜AFTER STORY〜』(2008〜09年、原作:Key / ビジュアルアーツ、監督:石原立也、制作:京都アニメーションTVシリーズ全24話
とらドラ!』(2008〜09年、原作:竹宮ゆゆこ、監督:長井龍雪、制作:J.C.STAFFTVシリーズ全25話


泣けるアニメといえばだいたい1位2位あたりを取る『CLANNAD 〜AFTER STORY〜』と、5位圏内あたりに入ってくる『とらドラ!』。人並みに涙腺の弱い僕も泣かされた。ところで「全米が泣いた!!」とかよく聞くけど、泣いたと泣いてないの境ってどこにあるんでしょうね。


LV.1 乾き目が潤う
LV.2 うっすら涙を浮かべる
LV.3 目頭が熱くなる
LV.4 涙が溢れる
LV.5 大粒の涙がぼたぼた落ちる
 

僕の場合、『とらドラ!』はLV.4、『クラナドAS』はLV.5満点合格でした。こう言うとわかりやすいでしょ。全米が泣いたも「全米が泣いたLV.5!!」とか言ってくれればこちらも「ほう。視聴してみるかね」となるんだが・・・。というのはさておき、より涙が出たのは『クラナドAS』だが、好きなのもオススメなのも確実に『とらドラ!』。その辺の話でお茶を濁すよ今回は。


クラナドAS』はギャルゲーが原作。アニメとしては1期の『CLANNAD』の続編にあたる。1期は学園生活を送る主人公・岡崎朋也といろんな女の子たちとの触れ合いを描く、まぁ誤解を恐れずいってみればオタク向けアニメなのだが、これは正直見てるのが辛かった。女の子たちが抱える過去のトラウマを解決してあげて感動!みたいな感じなのだが、登場する女の子たちが萌えキャラテンプレみたいな血の通ってない人たちで、だいたいが言葉は悪いが白痴みたいな言動しかしない。女性を征服したい男の願望がねじれまくった感じで、これで感動している人の気がしれないと個人的には思ってしまうのだが、一転して『クラナドAS』は全く違うアニメに変化する。(ゲームはやっていないのであくまでアニメ評です)


1期は高校時代に彼女と付き合うところまでをファンタジックに描いたのだが、2期は卒業・就職・プロポーズ・同棲・結婚・出産そして・・・という人生の俗なるイベントに即して進んでいく。登場人物も自分の親や相手の親といった家族に限られてくる。夢よりしみったれた現実を描くけっこうめずらしいアニメである。『クラナドAS』は、人生の最大イベントを次々に進めていくというスタイルによって物語を駆動させる。「イベント」が登場人物の感情のクライマックスを何度も引き起こし、ドラマを巻き起こす。「イベント」の足し算によってできているのだ。視聴者は、1期のあどけなかったヒロイン・渚が、作画上もだんだんと大人の女性になっていくことをしみじみと味わいながら、主人公と二人で人生の大きな決断をするその瞬間の美しさを共有し、感動する。
この作品で最も美しいのは17話・18話で出てくる二人の子・汐(うしお)である。ある理由により5年間半ば育児放棄していた主人公が、はじめてまともに娘と喋り、二人で旅行に出る。このときの父親と5歳児のぎこちない緊張感と少しずつ歩み寄る心、この2話の演出は神演出と言って良い出来で、ここでLV.5まで泣かされることになるのだ。涙が滲むとかいうレベルではない。落ちるのだ、ぼたぼたと。


「泣ける」=「泣けるストーリー」と考えるのが普通だと思うけど、言い過ぎると実はストーリーなんかたいして重要じゃないのだ。「泣ける」=「泣ける演出」だと僕は考える。どんなによいストーリーでも演出が悪ければ泣けないが、演出が良ければどんなにありきたりなストーリーでも泣ける。ストーリーと演出はそういう力関係だ。これは、ストーリーというものが頭で理解するものであるのに対し、泣くのは体であり、身体(無意識)に働きかけるのは演出のほうだ、ということである。
たとえば『クラナドAS』17・18話は音楽の入れ方が素晴らしい。汐が初めて画面に顔を出す瞬間の、森の精霊にでも出会うような神秘的な音楽、一転して静けさのなか鳩とセミの鳴き声だけになると二人の緊張感が伝わる。そして徐々に緩和すると明るい曲へ。演出は無意識に働きかけ、涙へ至る道を整備していく。
汐の声の演技もまた神がかっている(CV:こおろぎさとみクレしんのひまわり等)。汐の受け答えや動きもほんとうに生きている子供のようだ。何気なくご飯つぶを指で潰したり、人を見るとき無表情にまっすぐに見る。汐はジブリ的な無限のパワーを持つ子供でもあり、もう十分に空気を読む繊細で利口で都会的な人間でもある。アニメ的な過剰な表現を禁じ、リアリズムに徹することで、その微妙な感じが高い再現性で実現されている。ここではその演出がピタリとはまっている。とにかくこの2話は最大級にオススメなのだが、この2話を万全に見るために最大級にオススメしない1期から見なきゃいけないというのがつらい。(しかも慣れていない人は「いたる絵」と呼ばれる特徴的な絵で拒絶する可能性が高い)


これだけ言っておいて『とらドラ!』のほうがオススメだというのもどうかと思うが、『とらドラ!』がすごいのは、イベントに頼らず人の心を表現したところなのだ。告白するとか人が死ぬとか、みんなで大ボスをやっつけるとか、地球が滅亡するとか、だいたい感動するシーンというのはイベントの大きさや設定に頼るところがある。『クラナドAS』もそういう観点では、ありきたりなものだ。だが、イベントの足し算ではなく、日常の微分で25話を描ききったのが『とらドラ!』である。


とらドラ!』は高校2年生の1年間を描いたラブコメで、主人公の周りに3人の女の子が登場する。イベントは新学期、水泳大会、夏休みの旅行、学園祭、クリスマスパーティ、修学旅行、バレンタインデーとベタなものしかない。だが、この特別なことの起きない1年間のなかで、3人の女の子の「好きな人を思う気持ち」と「他人を応援する気持ち」、「優しさ」と「意地悪さ」といったパラメータが、ちょっとした日常の言動によって刻々とぐりぐり変化する。それぞれが繊細な三次関数F(x,y,z)を抱えていて、はじき出された数値が他の2人の関数に影響を与え、再び連鎖していく。だからたいしたイベントがないのに無駄な回がない。『とらドラ!』を見た人はだいたい2周目を見たくなるはずだ。1周目ではよくわからなかったあの時のあの登場人物の言葉は、数学的帰納法によってなるほどそうだったのか、と。最初は大河派だったけど、みのりんの良さに気づいたとか、3周したら今度はあーみんが良かったとかいう会話が成り立つのである。イベント主体の恋愛ストーリーは男性でも作れるが、こうした女心の数学は女性だからこそ描けるものである。原作が女性作家による、少女漫画の要素を取り入れたライトノベルであったことが大きいのだろう(読んでないけど)。
ちなみに『とらドラ!』の3人の女の子、逢坂大河櫛枝実乃梨川嶋亜美は、『クラナドAS』のリアリズムに比べるとずっとアニメ的な造形だ。ザ・ツンデレ、明るく元気なスポーツ万能タイプ、美人だが高飛車で口が悪いタイプ。現実の人間というよりかなり戯画化された人物像だ。だが、この萌えアニメ的キャラ造形は話が進むに従ってどんどん崩れて生臭い人間になっていく。萌えキャラと思っていた人物が感情丸出しの喧嘩・殴り合いをする様はなかなか爽快だ。キスシーンの描き方も含め、全編を通して男だけではこういう想像力には至らないだろうな、という感じがする。


・・・などと長々と書いてしまったけど、『とらドラ!』はそんなことぬきに非常に楽しいエンターテインメント作品だからオススメ。そして細田守監督の『時かけ』で感じた「青春すばらしい!戻りたい!あれ?というかそんな青春なかった!男子校!!」という気持ちが久々にぶり返した作品だった。監督の長井龍雪はヒットメーカーで、この『とらドラ!』の他に『とある科学の超電磁砲』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』といった超人気作をばんばん世に送り出している。安心してみれます。





というわけで、無理やりテーマである足し算に引き寄せて紹介してみた。そしたら微分素晴らしいという話になってなんのこっちゃって感じ。
次こそ、その6へ。