足し算芸術としてのアニメ(6)

アニメとは足し算によってつくる芸術であり、その足し算には3種類ある。それぞれの足し算は、与える効果が違う。


1)「描き込み的足し算」→「没頭」
2)「衝突的足し算」→ 「ショック」(デペイズマン的〜は言いにくいので修正)
3)「装飾的足し算」→「話題」


没頭、ショック、話題といえば、マスカルチャーである。それは映画、TV番組、スポーツといった大衆娯楽が人びとに与えるもの。そして人びとが欲するもの。アニメも大衆娯楽のひとつとして、没頭、ショック、話題を提供する。アニメが大衆娯楽であることと、アニメの表現が足し算的であること。そのことだけから結論を急いではいけないが、「マス(大衆)」と「足し算」には深い深いつながりがあるに違いない。


その5で、アニメ表現が足し算的であることは収益構造がそうなっているからだと言った。ビジネス畑の人間じゃ無いので幼稚かも知れないけれど、さまざまな「作品」を次のように分類してみる。



◯A〜Cの「作品」は次の点によって定義される。
A:制作費が高い。売れないとダメ。
B:制作費が安い。売れなくてもOK。
C:制作費は関係ない。売り物ではない。
「音楽・マンガは売れなくてもOKなのか?!」「建築作品は制作費関係ない・・??」とか疑問噴出かも知れないけど、そういうことではない。A・B・Cの横に書いた作品のジャンルはあくまでホームポジションといったところで、状況や視点によって作品の置かれる位置は変わる。


たとえば「マンション」は、それを設計した建築家にとっての「作品」ならC系列。ディベロッパーにとっての「作品(=商品)」ならA系列になる。建築家にとってはそのマンションが売れようが売れまいが関係がなく、ディベロッパーにとっては売れるかどうかに社運がかかっている。もちろんヒットすれば建築家は次の仕事を得やすいかもしれないが、マンションが売れたことによって直接収入を得るわけではない。これが「マンション」ではなく「個人住宅」だったとすれば、なおさらその作品は商品ではない。建築家にとってもクライアントにとっても、住宅作品は売り物でない。
B系列の「音楽」「マンガ」「本・雑誌」は趣味でも作れる。初期費用が安いので、失敗しても大きなダメージはない。だからこれらのジャンルには「同人」という活動形態が花咲くのである。だが、例えば巨額の費用をかけて広告を打った音楽作品は、大手レコード会社にとってはA系列になる。そのときメジャーアーティストは作品が売れることによって給料以外の収入を得るし、大コケすれば次は予算がつかないという意味でレコード会社と一蓮托生だ。だが、仮にメジャーの舞台で敗れ去ったとしても、音楽を作ることはいつだってできるのだ。
「アート」がなぜC系列なのか、アートとは内なる衝動が作る作品であって頼まれて作るものじゃない。その通りで、アート作品はそもそもB系列にある。だが、売れるかどうかもわからない作品にとんでもない時間と労力をかけて一生を過ごすというのはほぼ無理だ。芸術家という職業で生きていくには、作品を売る前に「製作者(自分)」を買ってもらう必要がある。これが「パトロネージ(Patronage)」である。


◯何が商品か(何にお金が支払われるか)。
A:「作品」。
B:「作品」。
C:「製作者」。
ようするに、C系列は少し変なのだ。クライアントは世界に一つしかない、まだ見ぬ作品を買う。そのために実績や経歴を判断材料として製作者を買う。いやいや、A系列でもスポンサーがまだ見ぬ作品のために製作者にお金を支払っているではないか?と思うかも知れないが、それは購入ではなく投資である。投資は回収しないといけない。それはスポンサーにとっての「趣味」ではなく「ビジネス」である。投資にはリスクがあるため、たとえば最近のアニメ作品の製作は「製作委員会方式」という形態を取るのが主流である。投資リスクを分散しながら、出資者は各種権利ビジネスを展開するのだ。反対に、映画製作への資金提供であっても投資というより趣味的な購入(=寄付)という場合もある。昨年話題だった映画『サウダーヂ』の制作費の多くは、見たいから助けたいという寄付金で賄われている(らしい。まだ見てないはやく見たい)


◯最初の最初は何から始まるか。
A:魅力的な企画をプレゼンし、出資を募る。
B:とりあえず作る。
C:実績がないのに頼まれる。
C系列はかなりおかしなことが起きている。なにせ実績のない人間に大きな買い物を頼むのだ。「家族が大金持ち」の場合この跳躍が起こるかもしれないが、そうでもなければふつうA系列やB系列から始める。建築家の場合、B系列のようにとりあえず作ることもできないので1作目が実家というのはよくある話だ。また、若手建築家にとってのB系列は各種アイデアコンペやUNBUILT(建つ見込みもないが自分のビジョンや理想を描く絵)にあたるだろう。さらに言えば、これからの建築家はA系列も増えていくかも知れない。とくに、既存ストックを利用した改修や運営は新築と比べて少ない資金・少ない制約で始められる。たとえばマイクロファンディングサイトのCAMPFIREを利用した資金集めでも、まだ少ないがいくつか建築系プロジェクトが実現している。株式会社ツクルバによる<co-ba>プロジェクトなどはその先駆けであり、建築家のあり方を押し広げていくひとつの流れを作り出している。


◯どうやって2巡目にいくのか。
A:ヒット作をつくらなければいけない。「数字」がよければ次がある。
B:売れたらラッキー、売れなくてもまた「頑張ればいい」。
C:「作品」が誰かの目に気に入れば仕事が来る(かもしれない)。
アニメの話、表現の話からだいぶ遠ざかってきたようだけど、ここまでの議論こそが表現に関係してくるのだ。アニメは大勢の人に見られなければいけない、ということは多くの人が興味を持たないといけない。ここで話は一周してくる。多くの人の生物的本能に働きかけ熱中させ没頭させる「描き込み的足し算」、多くの人の目を振り向かせる「衝突的足し算」、多くの人の互いに違う興味を取り込む「装飾的足し算」。これらは共通して「多くの人=マス」を対象にした手法なのである。どれだけ売れたかという意味でのドライな「数字」が次回作へとつなぐ。つまり作品自体の革新性や独自性といった価値そのものが重要なのではない。作品自体の革新性や独自性が呼びこむ人の量が重要なのだ。「商品住宅」が様々な意匠をまとったサイディング(外壁仕上げ)、主婦に受ける高性能キッチン、お父さんのための隠れ家である書斎、おじいちゃんのための庭、勉強が捗る子供部屋、などなどといった支離滅裂な要求を満たすため足し算的表現を取るのは、それがマスを対象にした商売である以上、当然の法理なのである。
一方で、C系列では作品そのものの内容が2巡目へのきっかけとなる。もちろんどこにも発表しない個人住宅では意味がないが、各種メディアに掲載された作品の内容を見て次のクライアントはやって来る。この場合は逆に、過去に建築家がどのくらい儲けたかはあまり関係がない。こうして建築作品は内容が際立っていることが必要になってくる。誰もが安心して適度な楽しみを得られる足し算的娯楽であるよりは、ほとんどの人が見向きもしなくても誰かの心にヒットするもの。それでいいのだ。


ここでひとつ、収益構造が表現と密接に関係しているという議論をふまえて、批評家・多木浩二の言葉を思い出してみよう。


「俗なる家と建築家の作品の間には埋めがたい裂け目がある」(『生きられた家』1976年)


当たり前だ!