(第二話)「原っぱ」と「遊園地」

もしディズニーランドの園内で生まれて、その内側がすべての世界で、死ぬまでそこで暮らすとしたらきついなぁ。きっと思春期過ぎた頃から「この世界がすべてな訳がない!」という妄想が肥大化していって、ある者は塀を上ろうとして捕まり、ある者はわけもわからなくなってミッキーを刺しちゃうかも知れない。でも僕は、できることなら戦略的になって、どうにかシンデレラさんを誘惑してシンデレラ城のてっぺんに招かれよう。そして目を盗んでカーテンを開け、「わぉ、地平線の先まで街がある!」と叫ぶのだ。


「遊園地」は、「あらかじめそこで行われることがわかっている」ものを指す青木淳語だ。「遊園地」は、「どういう楽しさを子供が得られるか、それが最初に決められ、そこから逆算してつくられている。それもまたとても楽しいことに違いないけれど、そこにはかかわり方の自由がきわめて少ない。ジェットコースターには、ジェットコースターとしての遊び方以外が許されていない」。「遊園地」は「空間が先回りして行為や感覚を拘束する」、つまり人間に対して「いたれりつくせり」なもののことをいう。

もうひとつの青木淳語「原っぱ」は、『ドラえもん』でよく登場する「土管のある空き地」のことだ。「野原」ではなくて、宅地造成されたものの何らかの理由で放置され雑草に覆われた空き地のことをいう。「原っぱ」は「なにかの目的をもって行く場所ではなく、ともかくそこへ行って、それからなにをして遊ぶかを決められる特別な場所」であり、「そこで今日なにが起こることになるのかが、あらかじめわからない」場所なのだ。


で、だ。青木淳が言いたいのは「遊園地」がダメだということではない。遊園地が遊園地としてつくられることは何の問題もない。でなくて、本来もっと「そこで行われる活動」が不定型なもの、たとえば「住宅」とか「都市空間」とか「美術館」とか「学校」とかまでもが「遊園地」化してきているんじゃないか、そしてそれによって人間の「自由」が阻害されているんじゃないか、ということだ。
青木淳は次のようにも説明する。たとえば「自動車の運転席」のような要求が不変なものに対して「いたれりつくせり」な人間工学的解答が効果を発揮することには疑問の余地がない。でもそれは、要求が「長時間、ほぼ同じ姿勢で、疲れないように、安全に運転できること」という単純かつ不変なものであるから「遊園地」でもよいのだ。それがもっと要求が複雑なもの、どんどん変わっていくだろうものに対して適用されると、とたんに人間をばかにしちゃう拘束具になってしまうのだ。


ジャイアンは空き地でリサイタルする。土管の上がステージだ。土管がもし空き地の真ん中にあったならジャイアンは悩んだだろうな、と僕は思ってしまう。たまたま端にあったから「あ、ステージとして使えるじゃん」が生まれたのだ。ジャイアンは何度もリサイタルを開いてみんなの顰蹙を買っているためもはや新鮮味も何もないのだが、最初に限って言えば、ジャイアンは「使えるじゃん」を「主体的」に「発見」したのである。それは、もともとあった「空間の質」がジャイアンをして「発見する主体」へと変えたのである。「原っぱ」とはそういう場所だ。そして青木淳が次に考えるのは、「原っぱ」はどうやってできたのか、だ。