(第八話)梨園

第五話で自分の昔話をして、「未分化」のときがあったと書いた。そうしたら友人のYが共感してくれて、それについて話し合った。


子供の頃、「そこ」には秘密基地があって、いつも遊ぶ友達と「そこ」でいろんな遊びをした。「そこ」というのは物理的には近所の上水路沿いで、梨園の近くだった。それで「梨園のとこ」とでも呼んだのかもしれない。友人いわく、その上水路沿いには他にもいくつか仲間同士でわかりあえるポイントがあって、それぞれに別の名前がついていたそうだ。
僕は、「梨園のとこ」という言葉が指すモノは、単なる場所じゃなかったのだと思う。匂いや音、雰囲気、いっしょに遊んだ記憶、そのとき抱いた感情。そういう全てが「未分化」の状態で具体的な場所とともに名指されていたのだと思う。それに「梨園」というのは、オトナがそう言ってたのを便宜上拝借しただけで、ほんとうに梨園があったのか、そもそも梨園とはなんなのか、なんて子供にとっては関係ない。ただ、仲間と共有したその未分化の世界を呼ぶときに「ナシエン」という音が必要とされたにすぎない。
「イヌ」という言葉がイヌ全体の概念を表す、というのは、ある種の情報の劣化であり、同時に人とコミュニケーションを取るためには避けられない「名づけ」だ。この「名づけ」こそが文化の始まりでもある。でも、その子供達はもっと濃密なコミュニティにいた。情報を劣化させることなく通じ合えるものがあった。未分化のぐにゃぐにゃをナマのままで共有することができた。それはもっと言えば、この子供達自体が「未分化」だったのかもしれない。おれはおまえで、おまえはおれ。


「名づけ」は、神さまの時代にもとっても重要だ。昔の日本では、神さまの訪れの多くは天災や疫病や不作として認識された。そうすると、ときの天皇は物知り人(占いや祈祷をする人)にこう聞くのだ。
「何の神の御心であるか」
しかし占ってもわからない。だから天皇は「国土のどの神も忘れることなく祭ったのに、天下の公民の作る物を成育させず傷うのは誰の神であるかと、「誓ひ」をして問うたところ、「悪い風、荒い水の災いによって作物を傷うわが名は、天御柱命国御柱命である」という夢の告げがあった。」(菅野覚明神道の逆襲』)こうして名前がわかれば、その神さまをお祭りして、一件落着なのである。「わからないもの」を「名づけ」ることは、文化の基礎にある。


でもそうやって、あらゆるものが名づけられることによって豊かな情報をそぎ落とし、わずらわしい思いをしなくても済む世界になって、僕たちは幸せなんだろうか。すでに名づけられたものだけでしかコミュニケーションは成り立たないのだろうか。僕は「名づけ以前」のモノを介してだって、人は通じ合えるはずだと考える。むしろそれはとても濃密なコミュニケーションになるだろう。「名づけ以前」に戻ること、「名づけ以前」をつくること。それが僕には重要に思える。