(第九話)多木浩二で考える

(第五話)で自分の「おばあちゃんの家」の思い出を書いたのはだいぶ前になるが、ほとんど同じ文章に出会ったので引用したい。
多木浩二の『生きられた家』(田畑書店、1976年)より。

子供の頃、かなり広い家に住んでいた私は、使われていないいくつかの部屋を、日常の空間のまわりにぼんやりと意識していたようである。それらの部屋には、日頃、使っている部屋とは別の時間が住みついているような気がして、あまり入りたくなかった。たまにそれらの部屋に身を入れてみると、部屋は最後に使ったときのまま残っている。時間はそこで凍りついていたのである。物のあいだにはまるで身振りがのこっているように思えた。
私は家全体のなかに、数多くの記憶がただよっているような印象を抱いていた。古いタンスの抽出や引違い棚をあけたときにも、一種焦げたような匂いとともに、古い着付けや品物が見つかったこともよく憶えている。抽出にも引違い棚にもいつからはいっていたのかわからぬようなものがあった。自分のへその緒を見つけたこともある。それらは自分の知らぬ家の記憶にめぐりあったような経験だった。家のなかには、人々がもう忘れてしまったり、関係のある人々が死んでしまったりしたものがいっぱいつまっていたのである。
それだけではない、子供の頃には、棚の上の置物も、書架の本も、ある種の知解できないオブジェだった。かたちや色はよく知っている。だが、それがなんのためにそこにあるのか、そもそもなんというものなのかも知らなかった。たとえば銀色をして、滑走するかもめのようなかたちをしたものというような映像だけがあった。私は、それらをやはり、私の知らぬ記憶を、未来でも見るような印象でながめていた。
(p97「家の記憶」より、適宜改行した)

自分が、自分よりずっと巨大で計り知れない時間に取り込まれながら、自分の想像も及ばない物体に見下されながら、ある種の居心地悪さを感じながら住むことは、実は「心地よい」ことである。
しかし、最近の人間にとっては、そういうのは「損」ということになっているようである。「苦痛」に感じる人もいるかもしれない。
強い言い方をすれば、そういう人は退化しているんじゃないかと思う。(091219追記:もちろん自分も含む)
肥大化した自意識に食われることなく、世界の一部として自然にあるような自分ーそれは5つの感覚器が全ての意識に先立ってフル稼働してしまうような身体ーというのは、とっても未来的な人間像だと思う。


最近はSC(ショッピングセンター)がおもしろいらしいのだが、自分自身でたとえば三郷や台場や豊洲船橋に行っておもしろいと感じたことはない。コールハース以降、Shoppingの空間を他のプログラムに転用するという魅力的な方法が編み出されたわけだが、いまさらSCから建築として学ぶことはないような気がする。(091219追記:SC研究は後輩が2年前すでにやってるし「2009年もSCかよー、もう違う話したいよー」という気分…。だがtwitterで平塚桂さんが「当時はSCを(都市を含む)計画学的な集積として捉えていたのだが、いまはテナントリーシングや運営、コスト、工法を含めて見てこそSCは面白いようにみえる」とつぶやいていて、確かにそうやって見るとまだまだ学ぶことがありそうだ。)
フラヌールあるいはSCに列をなす人々は、「イデオロギーから自由になった人間」という積極的な評価が可能だけれども、いっぽうで孤独からくる不安からは、あいかわらず自由になってなどいない。
むかし、テレビは地域にひとつだった。それが一家に一台になって、部屋に一台になって、さらに一人が分割されて数台持つようになる(部屋にあったり風呂場にあったりワンセグケータイだったりカーナビだったり)。徹底的に割っていけば、消費者は無限に増えてくれる。
そういうふうにして個であること(そして分裂症であること)を求めるのは、いらないものを売りたい人たちだ。それを売りたい人は、家に帰れば買いたい人でもある。そういう無限ループのなかで生きてれば、孤独になるし何かワラ的なものをつかみたくなる。そんなワラが昔は「イデオロギー」だったのかもしれないし、いまは「アーキテクチャ」に身を任せることなのかもしれないが、まぁよくわからない。


とにかく、そういうのが、なんか感覚的には「古い」感じがする。
上の多木浩二の引用はそのままではノスタルジーということになるかもしれないが、このような「時空を超えたものの隣接」は、むしろ垂直分裂に代表されるマンハッタニズムの諸概念やShoppingと相性がいいはずなのだ(ただし「生きられた家」は本来計画できないものなので、注意が必要です)。
それに、人間を割ることとも別に相性が悪いわけじゃない。お金の浪費のためでなく、自分を割っていろんな時空に流し込んでしまえば、気持ちいいんじゃないかと思うのだけど、どうだろう?


さいごに。
子供のときには可能であった濃密な体験が、往々にして大人になるとできなくなるのは、そういう環境(とそれを感じられる自分)を維持するのは難しいということだ。わからないものに「名づけ」をすることで大人の会話ができるようになるのだから、それは仕方ないとして、そんな大人のためにステキな建築をつくりたいと思う。