(第一話)青木淳さん、それです!

『原っぱと遊園地』(青木淳著/王国社)を読んで、僕は自信を持って言えることがひとつある。

「この本を読んで最も感動したのは僕である」

あるいは、それが生意気に聞こえるなら、

「この本を読んで僕のような感動のしかたをした人はいないのではないか」だ。

というのは『原っぱと遊園地』に書いてある内容に対して「おぉなるほど」と感動したのではなく(これは誰でもできそうだ)、『原っぱと遊園地』を読んだ僕は「そうそう、そうなんだよ!それだよ!うぉー」と思ったのだった。あまりに「僕が考えていたこと」をほぼぴったりと言い当てていたから、「なんじゃこりゃあ!」と思った。こういう出会いは初めてで、僕は小さな自宅の部屋で小躍りさえした。


正確に言うと、青木淳と僕の考えが一致しているのは、だいたい主張の根幹に関わる部分のうちの50%である。残りは「うーん、そうかなぁ」という気持ちがあったりする。でも、本を読んで、その内容の半分が「自分の声にならない声」を代弁しているなんてことはめったに起きることではない。そういう意味で感動したのだ。こんなにも似たことを考えている人がこの世にいる、という事実はとても嬉しいものだった。


一致しているところ
1.「よい空間」と思うものがほぼ一緒
2.それら「よい空間」を「よく」している要因はなんなのか、についての考察がほぼ一緒
3.現在そうした空間がどんどん少なくなっているという認識、そのことに対する危機感が一緒


一致していないところ
4.「よい空間」を発見するに至った経路が違う
5.「よい空間」が人に与えるもののうちメインに考えていきたいこと、が違う(これと4は関係がある)


まだ理解していない、あるいは懐疑的なところ
6.「よい空間」をつくる方法があまりしっくりこない


このエントリーでは目次的に並べるだけで、深入りしない。このテーマから出発すればとてもとても膨大な範囲のことがらを扱えるし、その全部を書くことなんて到底できない。なんせ僕は「青木淳から始めることで、どんなところまでも飛んでいける」という気がしているのだ。今のところ僕の思考の全てを「青木淳で考える」というフレーム内に納められる気がしている、というよりそれが一番思考を潤滑にするんじゃないかと思っている。もちろんそれは「青木淳が考えていることと僕が考えていることが一緒」ということでは全くなく、むしろいろいろ違うのだが、その違いがとても追いやすい、つまり自分について考えやすいということだ。
とりあえず、上の1〜6の答えを書いてみる。説明はおいおい、できるとこから始めたい。


1.共通しているのが「廃墟」「工場」。青木淳はほかに「美術館として使われるかつての学校」など。僕はほかに「神社」。
2.「人間を考慮しないルールによってできており、そのルールがもはや不可視である」ということ。これが一致しているなんてすごい!
3.青木淳は「原っぱ」より「遊園地」が求められることに対する危機感。僕だと「こわいもの」が減ったなという危機感。
4.青木淳は美術館としてよい空間について考えた。僕は圧倒的に美しく同時に畏れを感じるような空間について考えた。
5.美術館とはつまり「空間と対等であり、主体的に創作する人間でいられる場所」をメインに考えている。僕はむしろ「完全なる他者らしきものに出会ったときの断絶を味わえる場所」をメインに考えている。
6.幾何学的なルールが暴走することでしかつくれないという主張。僕は理解はするけどあまりやりたくない、他の道もあるんじゃないか。


4と5は違いではあるが、実は同じことを別の角度から見ただけなのだ。その説明は荒唐無稽なようだが「神道」から読み解くことができる。『神道の逆襲』(菅野覚明著/講談社現代新書)は僕が卒業設計のときに読んでいた本だが、青木淳と全く同じことを言っている箇所すらある(いずれ説明します)。
だったら1〜5はほぼ同じだと言え、6、つまり建築家としてこれから生きていく上で一番重要な建築の方法だけが「まだ考えられるんじゃないか」と思っているのだ。そうしてなぜ6だけ違うのかと考えると、それはやっぱり1〜5を考えるに至った出自が違うからなのだ。同じようで同じじゃない。『原っぱと遊園地』をスタートラインにおいたのは、それが理由だ。


※これから、この枠組み『青木淳で考える』に僕にとって大事なすべての考えを投げこんでいくつもりです。これはそういう壮大な試みとしてあります。しかしぜったいに読んで損はさせないつもりなので、ついてきてほしいとも思っています。では、楽しみにしていてください。
※かなりめんどくさい文章になってしまったけど、次からは、原則ひとつの記事にひとつのお題でいきます。今回は説明を省いたけれど、すべてちゃんと誰でもわかる言葉で説明します。