(第六話)先達のことばを拝借して、大事なことを一気にいう

次の三つは、人が「自分で考える」瞬間について、いろんな言葉で書かれたものだ。

何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。(原研哉『デザインのデザイン』)


神はある日突然に出現する。景色は一変し、私たちの生は動揺する。一変した風景が元に戻り、私たちが「記憶と常識」とを回復するまでの時間こそが、私たちの神の経験である。この神の経験は、私たちが普段何気なく送っている生や、取り立てて意識することのなかった日常の風景を、(‥)意識的に問い直していく契機となる。(菅野覚明神道の逆襲』)


他者は「我が家」に混乱と不和と紛争と確執を引き起こす。他者との出会いとは、「我が家」という安定的な知解のシステムが解体し、私が絶対的な「単独者」として孤立するような経験である。(改行)というのも、到来した者の言葉は、私の理解や共感を超えているにもかかわらず、その理解できない言葉を、私はそれでもなお一個の「主体」として引き受け、聞き取らなければならないからである。(内田樹『ためらいの倫理学』)

だんだん文章が難しくなっているけど、言っていることはほぼ同じだ。「未知なものと出会ってちゃんと向き合うことから"自分で考える"は始まる」ということだ。そのことをふまえて次の二つを読みたい。

表がいつの間にか裏になり、またいつの間にか表に戻る。つまり表は裏であり、裏は表である。こういう体験は、ぼくが日本の都市で感じることに近い。ここは都市の表側だと思っている歩いていると、ふとそこが実は裏側であったと感じる瞬間がある。同じく浮かんであるのに、表が裏に、あるいは裏が表にひっくりかえるという感覚は、たとえばヨーロッパの都市では、ぼくはまるで持つことはない。(青木淳『原っぱと遊園地』)


異形の世界は、人々の見慣れた日常と、「カルタ」の裏表のように一体のものであるということなのである。(‥)そしてこの同じものの反転において、ただの猫、ただの狐、ただの雨、ただの雷が、それぞれ神であるのだ。(‥)この猫自体、あるいは猫一般が神なのではなく、細かくいえば、「可畏き物」として出会われている限りにおいてこの猫が、神なのである。(菅野、前掲書)

じゃあ未知なものはどこにあるのか、といえば、どこにでもあると菅野は言っている。「未知なるものとして出会えば、それは未知なるものなのだ」ということだ。冒頭の原研哉はそのこと言っている。そして青木淳の感覚や、「神道」に関する本がこのように書いていることから察するに、なぜだか「日本」には同じものに「表裏」があり、どちらと出会うこともできるらしい。続けよう。

他者とは「神」であり「隣人」である。だから他者に向かって私たちがなす「愛」の行為とは、「おのれの理解を絶したものを受け容れる」ことと、「おのれの所有物の見返りを求めずに贈ること」を同時に含意することになるのである。(内田、前掲書)

出会ってしまったら、とりあえず受け容れ、そしてもてなす。(今手元にないが、高橋源一郎『小説教室』にも「飛んできたボールはつかめ」と書いてあった。)
菅野が紹介する、柳田国男のいう「馬鹿正直」というあり方は、これととても似ている。御伽噺の『花咲爺』では、シロという犬がお爺さんに自分を拾えと喋りかける。「喋る犬」という風景の反転=異常なものの現れに対し、お爺さんは何の危機感も疑問も抱かずにシロの言うとおりにする。危なっかしい行為だが、それが神に祝福される「馬鹿正直」という条件である。

拾ってくれろというシロの要求は、畏るべき神の祭祀の要求と本質的に同じことなのである。異常なる富を得るには、ともかくもあらわれた神を受けいれなければならないのは確かであろう。(菅野、前掲書)

そうやって、突然現れる神=客=他者を受け容れて歓待すること(それは危険な行為でもある)を通して我々の生は豊かになる。

お客さまに良い物を差し上げ、その見返りないしお下がりで豊かに暮らすというのが、日本人の神さまとの付き合いの基本である。(菅野、前掲書)

これを「自分の欲しいものは、まず他人に与えることでしか手に入らない」と内田樹なら言う。*1
まとめると単純で、「本当はあらゆるものが未知なのだ。未知なるものに出会って、それを受けいれる。それまで信じてきた自分が揺らぐかも知れない。そうしたら自分で考えなくちゃならない。そういう困難を通して人は成長する」というだけだ。


たくさん引用したが、「他者」の話をしたかったわけではない。じゃなくて、僕が重要だと思うのは「日本古来の生き方」に「みんなが自分で考える」豊かな社会へのヒントが隠されている感じがすることだ。僕はなんだか、日本の空間にある「畏れ」が大事な気がしてしまう。だから青木淳の「表裏は日本にあってヨーロッパにない」という先の発言は気になるのだ。

*1:菅野覚明の「神道」が内田樹の「レヴィナス」と非常に近いのは、偶然ではなくて、むしろ菅野が「他者」という概念を知っていて、それに結びつけて「神道」を語っているからかも知れない。でも、大事なのは、そうだとしてもやはり「神道をそのようにも語れる」ということを菅野が証明していることだ。