初音ミク論 その2

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初音ミクは好き嫌いがはっきり分かれる。もっとも大きな原因は「萌え」だ。オタク文化が好きか、少なくとも耐性がある人でないと、ミクの持つ「萌え」の側面で拒否してしまう。

まず通常の音楽好きが気になるのは、この萌え声なんじゃないだろうか。これが、好みのジャンルや楽曲とは合わない場合、楽しみようがない(例えばjazz とこの声質は合わない気がする)。また、技術が優れているといえ、人間の声に比べれば不完全な部分が目立つ。現在のユーザーで初音ミクを楽しんでいる人は、萌え声はとりあえず受け入れていて、さらにその不完全さ(伸びしろに対する期待)も含めて楽しんでいる人びとだろう。また、未熟なところがなおかわいいという態度もありうる(全体を通して育成というエッセンスがあることだし)。
 そうした、<(完成度を問わず?)コンテンツから自分なりの楽しみを引き出す>という積極的な消費の姿勢が求められることがいくらかの人にとってハードルとなっている可能性はありそうだし、その姿勢が自然に備わっている消費者という条件と、萌え文化というかオタク文脈というのはやはり関連がありそうだと感じる。(初音ミクに期待すること — nogaminの断片 リンク切れ)

「萌え」という文化は絶対に万人受けしない。だが、初音ミクが爆発的なムーブメントを巻き起こしたのは「萌え」要素を兼ね揃えていたからである。初音ミク以前に発売されていた「MEIKO」が一部でしか話題にならなかったのは、萌えキャラでなかったからというのが定説だ。ここでは「萌え」の内容には触れずに、やはりドライに効用だけ考えてみる。
萌え文化が好きな人というのは、日本の総人口から見ればマイノリティである。だが、なぜか知らないがこの少数民族コンピューターリテラシーが異様に高い。最先端のテクノロジーを使って集合愚(集合知の無駄バージョン)を体現するのが好きな人が多い。この層に狙いを絞ってボーカルソフトという最先端技術を放りこむと、盛り上げてくれる確率が高い。開発者の佐々木渉が「テクノロジーを楽しげにパッケージすることが最優先」と言うように、ここには戦略としての「萌え」という側面がある。

VOCALOID MEIKO

VOCALOID MEIKO

※いまやMEIKOも日本酒好きのお姉さんキャラとして人気。萌え声ではない明るく伸びやかな声が逆に重宝されている。


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では、実際に、初音ミクの作品はどのようにして生まれるのか。
誰かが曲をつくる。でも発表の場はニコニコ動画だから、止め絵(動画ではなく絵)でもいいから画像がないと作品になりにくい。そこで、絵のうまい人から絵を拝借する必要が出てくる。クリプトンの運営するPIAPROピアプロ)というサイトは、そういった異なるジャンルのクリエイター同士を結びつける交流SNSになっている。

ピアプロ』は、ネットに分散しているクリエイター同士がお互いの得意なコンテンツ(例えば、オリジナル曲、イラストなど)を投稿し合い、協業して、新たなコンテンツを生むための"創造の場"を目指すものです。
様々な分野のクリエイターが力を発揮する機会を提供することで、ピアプロダクションを加速し、CGMカルチャーを育てていきたいと考えておりますので、是非ご参加ください!(PIAPROより)

PIAPROでは、誰かが作った「オンガク」「イラスト」「テキスト」「3Dモデル」が無料で公開されている。作者はライセンスを自由に設定し、利用者はそのライセンスに沿った形で作品を使用することができる。それこそ貸スタジオのメン募のような「コラボ」では、クリエイター同士が情報交換したりメンバーを募集したりしている。PIAPROは明確にCGMコンシューマー・ジェネレイテッド・メディア)の将来を見据えている。そこでは、人に見てもらいたい、使ってもらいたい、感動させたい、面白いといわれたい、といった人間の純粋な欲求が無償提供という形で現れる。これまで一人では大変だった作品作りが、コスト減、スピードアップしながら、好きな人同士でつくるという素敵なオマケつきで、より楽しい作業になる。


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究極のCGMとして「MMDMikuMikuDance)」というフリーソフトが存在する。3Dアニメーションをつくるためのソフトで、樋口優(樋口M)が趣味で開発、ものすごいクオリティだが無償提供している。このMMD作品にCGMの到達点を見ることができる。

たとえば、この音楽PV。音楽をつくったのはmiksolodyne-ts、樋口Mの開発したMMDで動画を作ったのがネルドラP、でもエンドロールを見ればわかるように、登場するキャラや小道具や背景のほとんどは誰かがモデリングしたものを拝借する形でつくられている。ネルドラPのMMD作品でありながら、間接的に多くの人が関わっていることになる。「MMD杯」というMMDを使った3D動画選手権が年に2回開催されているが、こうした無償提供の連鎖が短時間での作品生成を可能にしている。
「初音ミクがグリグリ躍る「MMD」の現状と未来」— ASCII.jp


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音楽、というのは頑張れば一人で作ることができるものだ。動画も大変だけど一人で作れる。それがCGM文化のおかげでもっと楽に一人でつくれるようになった、という話をしてきた。でも、人工衛星はどうだろうか。
ソーシャル・メディア衛星開発プロジェクト SOMESAT』(旧称HAXA)は、CGM人工衛星を本当に飛ばそうという計画である。初音ミクがネギを振る人工衛星を飛ばすのだそうだ(これぞ集合愚の骨頂)。超電磁Pという第一線で活躍する技術者が趣味でやっており、賛同するさまざまな専門家が集まってきて毎週会議をしている。ガチ企画である。これがどうなっていくかは非常に楽しみだ。なぜなら、CGMの限界にチャレンジしているから。

MMDで作られたSOMESATのPV。序盤は超電磁Pが実際に行った実験を元にしている。


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ここまでの議論で、オタク文化に馴染めない人にも、少しは初音ミクの衝撃が伝わったかもしれない。けれど、2010年3月9日に行われた初音ミクのLiveの気味の悪さは一級品である。少し興味を持った人でも「これはついていけない」と思う確率が高い。でも、そういった目で見ているのは案外、日本人自身だけだったりする。数十万回再生されているyoutubeの動画は賞賛する外国人の声で埋め尽くされている。彼らは、もっとドライに、最先端技術が可能にした新しいエンターテインメントとして見ている。確かにキモイはキモイ。でも落ち着いて見ればこれはどう考えても、SF小説などで描かれてきた未来が現実になった瞬間だ。


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さて、そろそろシメ。今まで見てきたように初音ミクの登場以来、様々なことが起きた。でも、なんでこうなった?と改めて考えると、その中心に初音ミクという「キャラクター」がやはり浮かび上がる。「キャラクター」については真面目に考えなければいけない。でもそんな能力はないので、真面目に考えている人たちが何を考えているかだけ紹介したい。下は、初音ミクをめぐる創造力を政治に利用できないかという提案。

番組終盤、濱野氏が提案したのが「非実在政治家擁立計画」(キャラクタラシー)。
ニコニコ動画を見てみると、人気作家たちは「初音ミク」や「東方Project」など、仮想のキャラクターにクリエイティビティ(創造性)を預けている。そこで集合的/協働的な創作活動を行なっているのだ。それと同じことが政治でもできるのは? という発想だ。
複数のクリエイターが協力して「初音ミク」のPVを作っているように、複数の人々が協力して政策を作り、更新していく。キャラクターは文字通り人々の代理人格となり、政策の不一致が生まれたら「派生キャラ」として分離・独立していけばよい。(もはや初音ミクに投票すべき! ネット時代の政治論 — ASCII.jp)

ここまで忍耐強く読んでくれた方は、もうこれがおふざけだとは思わないはずだ。


オマケ\(^o^)/につづく

初音ミク論 その1

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たとえばブログに、ネットの掲示板に、あるいは貸しスタジオのメン募欄に、次のような書き込みがあったら人は何を思うだろうか。

「。。どうも、ハットリ(Vo, Gt, Ba)です。僕の新曲「さくら」の音源です。どうぞ聞いてやってください。」

……うん………とくに何も思わないし、かなり痛い。「新曲」というあたり、この人はすでに何曲かつくってるんだろうなぁと思うと怖い。通りすがりの人が彼の音楽を聴こうと思う確率は1%を切っていて、幾人かの友人は聞いてくれるかもしれないが、それでおしまい(仮にそれがいい曲だったとしても)。


だったら、これならどうだろうか。

「【初音ミク】さくら【オリジナル】  ども。うp主です。もうすっかり秋ですが、何を思ったかうちのミクが突然さくらの歌を歌い出しました。」

聴きたい。なんかよくわからないが聴きたい。少しだけならいいかと再生ボタンを押してみる。。
そっから先に評価されるかどうかは曲の良し悪しだ。だが、ドライな言い方だけど、初音ミクを利用すればとりあえず再生ボタンを押してもらえるところまで持って行くことが、自分の名前だけで活動する場合に比べて格段に容易くなる。(もちろんニコニコ動画あってのことだけど)


初音ミクとは、「みんなで使える有名人」である。初音ミクに歌わせれば「どこの馬の骨かわからない自分」という圧倒的なハンデを一足飛びに乗り越えることができる。分かりづらい人は、福山雅治が実はロボットで、誰でも自由に歌詞を打ち込んで歌わせることができると考えればいい。福山が歌っているという事実が、曲の作者を不問にする。そしてそれが素晴らしい曲だったなら、事後的に、作者は誰だ?と噂になる。作品さえよければ有名無名は関係ない。なんであんなもんが流行るのだ?と思う人は、そこに一攫千金アメリカンドリームが実現されていることを見落としている。
初音ミクの作曲家たちは、P(プロデューサー)と呼ばれ、しかもP名は往々にしてファンが作曲家に与える。ようするに客の前にミクが立ち、Pは舞台袖で見守り、それが大ヒットをした際にようやくPに名前が与えられるのである。名前をもらうことがひとつの目標となる。これは、逆に言えば、最初はみんな名前がないということだ。誰もが同じスタートラインから始められるのである。

VOCALOID2 HATSUNE MIKU

VOCALOID2 HATSUNE MIKU


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では初音ミクはクリエイターたちに「共有」された存在なのかといえば、それは少し違う。正確には「分有」とでも言ったほうが正しい。なぜなら、初音ミクはソフトウェアであって、買った人それぞれのPC内に存在するからである。だから「うちのミク」という表現になる。また、その外見も、ひとそれぞれである。公式のイラストはパッケージに描かれた一枚の絵だけだったが、今や初音ミクと呼ばれる図像は無数の「初音ミクっぽい」ものへと分散している。緑色でツインテールでネクタイをしていればOKだし、もっと崩してもみんながOKと思えばOKなのである。では、初音ミクは複数存在するのか? 答えはイエスだしノーだ。
初音ミクの拓いた新時代——複数的固有性の誕生」(ukparaの思索メモ (つねに未完成))で、東浩紀の「データベース消費」と比較して述べられているのは、固有かつ複数な存在というのが初音ミクの決定的な新しさだということである。もしかしたら公式のイラストは属性(データベース)に分解できるのかもしれないが、それでも藤田咲という実在する人物の声を持つ点だけは、どうやっても分解できない固有性を持つ。属性の束でできているものがメディアの垣根を越えて複数の生を持つのが「データベース消費」だったとしたら、初音ミクは固有でありながら複数の生を持つという点が新しいと、このブログの筆者は述べている。単数であり同時に複数でもある初音ミクとは、Pたちの異なる世界観=平行世界で生きる「ひとりの」少女なのである。


ここで面白いのは、次の事件だ。

民主党議員が、選挙活動の「秘策」としてボーカロイド初音ミク」を使用しようとしていたことがわかった。当初、初音ミクを使って候補者のプロモーションビデオ(PV)を作ろうとしていたが、権利を有する発売元の企業から「特定の政治団体のためには使えない」と断られてしまったという。(「初音ミク」で選挙活動計画 「政治利用ダメ」で民主議員頓挫livedoorニュース

発売元のクリプトンも熟考の末の決断だったと思う。初音ミクが分裂した存在であるなら民主党を応援しても構わないはずで、それを規制することは初音ミクの複数性の面白さに水を差すことになりかねないからだ。でも、同時に単数であることが、クリプトンの結論を導く。ここには、初音ミクがいかにグレーな存在かということが色濃く現れている。(個人的にはOKしちゃえば、自民党が対抗PV出したりして面白かったかも、と思うけどわからない)

※声のみの利用は許されたようです。が、ニコ動の住人たちはクオリティの低いものに対して容赦ないので、これではフルボッコです。心なしか初音ミクも無理やり歌わされているかのような、つまらなそうな歌声になっているのがすごい。


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ソフトとしての初音ミクに注目してみる(といっても持ってないのでうわべだけ)。「初音ミク」とは、ヤマハ音声合成技術VOCALOID2を使ってクリプトン・フューチャー・メディアが開発したDTM(デスクトップミュージック)用ボーカル音源である。これまでも一人で打ち込み音楽を作ることは可能だったが、ボーカルだけは人間が歌わないとどうしようもなかった。でもたいていの作曲家は歌がうまくないし、一番悲劇的な例でいえば、女性ボーカルの曲をつくりたい非モテ男はどうしたらいいのかという問題があった。だれか自分の曲を歌ってくれる女性を探さなければいけない。でもそれはとても厳しい。初音ミクは、そんな人達にも歌の乗った音楽をつくることを可能にした。
初音ミクはどんな歌詞でも歌ってくれる。だから、使い古しの言葉を羅列するJ-POPトップチャートと比べて圧倒的に歌詞が面白い(当然、NGな歌詞も出現する)。また、人間には歌えない高音、低音、早口、息継ぎなしができるために、聴いたことのない歌が生まれるのも面白いポイントである。楽器にしか聴こえないこともあるし、逆に楽器として使う人もいる。そんな音としての面白さもあるが、やはりここで一番大事なのは「一人で」曲の全てをつくり込むことが可能になったことだ。誰の協力もいらない。楽しいから自分の趣味をおもいっきり表現する。それがニコ動などのメディアで露出する。一般的にはマニアックすぎて陽の目をみない曲たちがものすごいスピードで生産されていく。


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なにより重要なのは「声」そのものである。初音ミクの声は、かなり変だ。ロボット声でありながらどこか人間らしい表情があり、たまにコロ助に聞こえたりもする。ボーカロイドが人間の歌の代理をするロボットだとすれば、かなりへっぽこなロボットなのである。クリプトンはその「いたらなさ」を不思議な魅力として積極的に評価し、売り出している。たとえば初音ミクは未来っぽいかっこいい服装をしているけれど、なぜかネクタイをしている。これは「未来から来たおのぼりさん」を表している。(ソース紛失しました) なんかいろいろ気を使って正装して行った面接で他のみんなが私服だったときの妙な恥ずかしさだ。未来(ミク)から初めての音を届けに来たけど、肝心の歌がうまくなかったorz、というのが逆に魅力になっている。
だが、使用者の技術次第であほで脱力する声だったり、かなり滑らかに伸びやかに歌ったり、機械に聞こえたり人間に聞こえたりする。声質も微妙に変えることができるから、曲によって少しずつ声が違う。声もまた「複数性」を持つが、同時にひとりの初音ミクが歌っているとも解釈可能だ。そしてクリプトンから2010年の4月30日に「MIKU Append」が発売され、初音ミクの声にSWEET、DARK、SOFT、LIGHT、VIVID、SOLIDという6つの音色が加わった。ウィスパーボイスや大人な声を手に入れた初音ミクはいよいよあらゆる方向に拡散していく。固有性と複数性の往復運動が初音ミクの面白さだとすれば、その振れ幅が大きくなることで、固有性もまた強化されていく。
※ちなみにAppendの開発者ロングインタビュー初音ミク Appendに託された「ものづくりの心」(ASCII.jp)は面白いのでおすすめ。

初音ミク・アペンド(Miku Append)

初音ミク・アペンド(Miku Append)


その2につづく

東北新幹線新型車両はやはり「はつね」がよかったと思う

初音ミクの消失 / cosMo@暴走P feat. 初音ミク(ジャケットイラストレーター:左 )

初音ミクの消失 / cosMo@暴走P feat. 初音ミク(ジャケットイラストレーター:左 )

Brad Mehldauの『Highway Rider』が素晴らしかったのもつかの間、cosMo@暴走P feat.初音ミクの『初音ミクの消失』もまたとても素晴らしかった。
Vocaloidの「初音ミク」を知っている人は多いと思う。けど、僕はとくに興味を持つことなく今日まで過ごしてきた。
それがたまたま上記アルバムのタイトル曲PVを見てたまげたのだ。


このアルバムの面白さは、初音ミクという一種の機械が、誕生し、愛され、しかしさまざまに使い倒され、どんな楽曲も歌わなければならないという定めがしだいに彼女の歌姫としての自我(?)を崩壊させていく、という過程をストーリー仕立てで描いているところだ。自らの存在に疑問を抱きはじめたミクは、自分の将来をシュミレートし、4つのバッドエンディングを導きだす。そして最後の2曲で、その暗く悲しい平行世界から再生する。感動以外の何者でもない。(このアルバムのコンセプトは東浩紀の『QF』などと同じ平行世界モノと言える。)
そしてバッドエンドのひとつであるこの曲のように、人間には決して歌えない歌い方をさせることで、なんともいえない瑞々しい音楽が生まれていることが、何より新しいもの好きな僕を震えさせるのである。(ジャンルとしてはアニソン+プログレではあるけれど)


初音ミクは面白い。そこにはいろんな利用法(世界)がある。上に紹介したのが「自らの存在意義をメタ的に問う」だとしたら、


・ふつうにヴァーチャルなアイドルとして

・ただ声を利用して

・あってはならない歌詞も歌ってしまう

Vocaloidミュージカル


これは、もう、ほんとうに名作(でも未完のまま途中で止まってしまった)。物語は、売れに売れた初音ミクを妬むMEIKO(ミク以前に発売されてたVocaloid)が事件を起こすも、腹黒いミクに返り討ちにあい、ひどい仕打ちを受けるという話。圧倒的な音楽的センスと面白さ、かわいさ、絶妙な映像と、同じものづくりとしてこれに勝てる気がしないから凹む。ちなみにここに貼ったのは第1話「私だってVocaloid」と第2話「3秒ルール」で、この後「おもいよとどいてよ」「カイトとミクと扉の向こう様」「一人」「新幹線」と続く。詳しく知りたくなった方はhttp://dic.nicovideo.jp/a/%E9%BB%92pへ。


このクオリティの高さ!
初音ミクの面白さは、誰もが言ってきたようにCGM(Consumer Generated Media)の面白さなのだけど、ようするにミクの場合は、
みんなが寄ってたかって無償で世界をつくりあげていく(膨大な楽曲やPV、MMDなど)
みんながいいと思ったものは設定に加えられていく(例えばネギ)
高速で歴史が造られていき、引用やズラシによってフィクションがどんどん緻密になっていく
それを支えているのがミクへの愛、ミクという現象への愛(萌え、そして最先端である自負など)
ということだ。このようにして創作が行われていくということ自体が革新的だったわけで、ベタというかナイーブすぎるのかもしれないけどCGA(Consumer Generated Architecture)があってもいいんじゃないか、と思ってしまうのである。
愛が引き起こす無償の行為、というものを、建築を存在させる基盤として考えられないか、と難しいことばで思いながら、初音ミクをうらやましく思うのである。

けんちく!

先日、家でサバの甘酢あんかけを食べながら、琴吹紬(ことぶきつむぎ)の誕生日を祝うスレッドを見ていた。
大勢の人たちが記念すべき7月2日に照準をあわせて、PCの前に数々のお宝グッズを並べ、名前入りでおめでとうと書かれたチョコプレートつきのバースデーケーキに火を灯し、各種麦茶を買い揃え、自ら描いた絵を飾り、『けいおん!』の人気キャラクターであるところのムギちゃんを盛大に祝っていらっしゃった。
その日、地方競馬では琴吹紬誕生日記念レースが各地で開催された。名古屋では第3レースと第7レースの2回ファンファーレが鳴り、どこかの馬と騎手が勝った。一方、高知競馬のアナウンサーは大事なレースを実況するにあたって『けいおん!』を詳しく調べており、使用楽器名などスラスラ言う上に、「つむいでいってほしい」などと上手いことを言うのでみんなに人気だ。


その日の夕飯は笑いすぎて時間がかかった。
基地外大杉ワロタww」とか反応するのが2chでの賞賛の仕方なのだろうけど(たぶん)、僕は僕ですごく楽しんで、心から面白いと思っていた。
なんのことやらわからない人は、ぜひ見てみるといいと思う。



けいおん!』は売れている。だからそれは「無視してはいけないものリスト」に入っている。「売れているもの」には一目置く必要がある。オタクの世界だからといって遠ざけていては何も得ることができない。(エグザイルやAKBも気になるなぁ)
もっと正確に言うと、なんで建築のことを書いているブログでアニメの話をしなきゃいけないのかというと、
「『けいおん!』のお客さんは、建築のお客さんであったかもしれない」からだ。
どうして建築の売れない日本で、『けいおん!』は売れるのか考えてみるのは面白いはずだ。


もちろんアニメのグッズやDVDをいくら買っても、建築を買うほどの出費にはならない。一方は趣味で、一方はもっと人生に関わる大きな買い物という違いもあるかもしれない(ファンに言わせたら逆かも)。だから、『けいおん!』さんのところのお客さんはニートかもしれないしお金持ちかもしれないが、買い物の規模とその意味という点で、建築のお客さんと比較できないだろうと考えるのが普通である。
でも、、人が生きていく上で欲しいと思ってお金を出して買っている、というところまで抽象化すればどっちだって一緒だ。



建築とつなげる前に、『けいおん!』を分析してみる。
見たことのない人のために少しだけ説明すると、「廃部寸前の軽音楽部を舞台に4人の女子高校生たちがガールズバンドを組み、ゼロから音楽活動を行っていくストーリー」とwikipediaは言うが、むしろ演奏することは珍しく、ストーリーもなく、ただ女子高生の無邪気な日常を描いているだけの暢気なアニメである。
けいおん!』の戦略のすごさは、ストーリーと呼べるものがないこと、恋を描かないこと、でも絵はめちゃくちゃに綺麗に書くこと、微妙な表情などにも手を抜かないこと、キャラの性格付けが細やかなこと、等々にある。
古いアニメがストーリーで見せていたのに対して、細かく作りこまれたキャラクターたちに、いろんなシチュエーションを与えてさぁどう反応するか、というのを見せているのである。こんなに東浩紀の言っていることがよくわかるアニメもない。それぞれのキャラとその言動のアーカイブをしっかり頭に入れておけば、誰でも二次創作できてしまう。そして現にされている。
そして「恋」だが、「恋」とはすなわちストーリーを発生させてしまうものであり、ストーリーはキャラを破壊(成長ともいう)してしまうものなので、それは描いてはいけないのだ。唯(主人公)たちの間に直接の利害関係が生まれなかったとしても、この言動のアーカイブで成り立つ緻密な世界で誰かが「恋」をすれば、確実に全キャラクターがひどく影響を受けてしまうのである。
そう、『けいおん!』に代表されるこの種のアニメでは、キャラ同士の「関係」こそが「世界」なのである。だからたった一人の違反が「世界」を滅ぼすのである。どんなに二次創作されてもへっちゃらだけど、キャラだけはいじってはいけないのである。恋は、だから(二次創作としてはあり得るが)丁寧に排除しなければならない。


今現在テレビ放送している二期では、意図的に言動のアーカイブの緻密化を進めている。
バンドメンバーは仲良し5人組なのだが、現実でもよくあるように、5人で集まるから仲良しなだけで、意外と適当に2人取り出してみるとなんか少し気まずかったりするものだ。最近は、意外な2ショットで、これまで積み上げてきたキャラたちがどう反応するのか試している。
また、冒頭に挙げたムギというキャラクターが、自分のキャラ設定に不満を抱く回もある。天然お嬢様で優しいムギは、みんなと仲良くしているようで、どこか他の登場人物たちと距離があることに気づいてしまうのである。キャラクター自身が自分の設定に疑問を投げかけ、なんとか親友と呼べるような関係に持ち込もうとするのだけど、結局は気を使われて終わってしまうのだった。言動のアーカイブは急激な成長を許さない。
そうやって緻密化しつづけることで、キャラたちがこの複製技術時代において、アウラを放ち始める。


建築の話にたどり着いてないけど、長くなったので、ここで一服。(つづく)

なんで書いたのか

そういえばなぜ妹島論を書いたのか、ここに書いていなかった。


僕は2010年2月に妹島論を提出して、5月に隈事務所に入った。
第四世代のスーパースターに取り入ったのか?
それまでの天邪鬼なハットリはどこへいったのだ?…という感じだ。
(実際知り合いにはそういうふうに思われてたりするかもしれないし、それは考えすぎというか自意識過剰なだけかもしれない)


ひとつ記憶に残っているのは、「6Q」というイベントで論文を発表したときに、藤村龍至さんが「彼が妹島論をやらなければならない切実さが伝わらなかった」というようなことをtwitterで言っていて、確かに「妹島論」をなぜ今やる必要があるのか、ということは一度ちゃんと書いたほうがいいんだと思った。


修論を書くにあたって、僕は建築史を勉強したいと思った。ぜんぜん知らないから。
そして(少ないけど)いくつかの本を読んで、うーん書いてあることはよくわかるんだけど、これがどう今につながっているのかいまひとつ実感できない、と思った。
いったい今自分は歴史のどの時点にいるのかなぁと思った。
戦後モダニズムも遠いし、磯崎の言葉も遠いし、野武士の戦いは少し近づいた気もするけれど、やっぱりもっと遠くに来てしまっていて、みんな砂埃で霞んで見えるよ、と思った。


一方で自分の学生時代を振り返ると、嫌い嫌いと言いながらもSANAAの影響が強い時代だった。
べつに本当に嫌いだったのかといえば、嫌いと言うことで自分を保っていた感もあるし、いややっぱりここは違うだろと思う部分もあった。
しかし、盲信しようと拒絶しようとSANAAの猛威を確実に受けた世代なのは間違いない。
コンペ一等案の紙面をSANAA人間たち(SANAA風の添景)が楽しそうに食卓を囲んでいたりはしごを登っていたりするたびに「全員死にやがれコンチクショウ」と思ったとしても、その反発はSANAAがいなければなかった反発なわけで、ようするに彼らは時代を築き始めていたのである。


だったら、、それならばそのSANAAを、歴史のパースペクティブというやつで論じることができたら、こっち側から過去の歴史たちに触れることができるんじゃないか、とあるときひらめいた。


そうして、妹島論を書き始めた。


だから、妹島論は、妹島和世の作家論が目的なのではなかった。
妹島和世という稀有な、そして一見歴史となんら関わりの無さそうなサンプルからどこまで時間を遡れるか、ということをやってみたのだった。
だから、論文には例えばラスキンが出てくる。妹島とラスキン。なんじゃそりゃ。
でもそうやって強引にでもいいから昔のことを今のこととして感じたかった。


それから、時間軸だけではなくて横の広がりのなかでも妹島を捉えたかった。
だから、論文では「妹島は初のセカイ系(ちょっと古いね)建築家だ!」とか言ってみたり、ジェンダー論へつなげてみたりした。


そんなこんなで、なんか、少しは今自分がどこにいるのか、わかったのかな。
というのが、妹島論を書いた理由なのでした。

Where did Kazuyo Sejima come from?

どうせドイツ語になるんだから英語版もup。

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You might be shocked to learn that Kazuyo Sejima never received an “architectural” education. Then again, depending on how you look at it, perhaps you could say that she did. Although Sejima studied housing, interiors and furniture, she never studied anything remotely resembling what one would call “architecture.”


Between 1979 and 1981, while enrolled in the graduate Division of Housing at Japan Women’s University, Sejima focused her studies on the design and creation of housing and living spaces. During her two years in graduate school, however, she also made independent visits to Toyo Ito’s office, as well as the department of interior architectural design at Tokyo Zokei University, an art and design college located in a suburb of the Japanese capital that was modeled after the Bauhaus. Koji Taki (b. 1928), a leading scholar and theorist who was well-versed in the visual arts such as photography and architecture, was giving a course there on the history of Western furniture at the time, and Sejima would commute two hours each way in order to sit in on his lectures. At Taki’s advice, she also started participating in interior design practicum sessions, sweating it out twice a week devising projects and designs together with the younger students from the department. The surprising truth – that Sejima actually studied furniture during her college days – is, even in Japan, not widely known.


Sejima’s interest in Taki stemmed from the fact that he had photographed residential projects by Kazuo Shinohara (1925-2006), an architect whose work she had much admired since her student days. Although the term “architecture” was still being used to refer mostly to public and municipal buildings, architects like Shinohara and peers who had rallied around him, such as Taki and Ito, contributed scathing critiques of their time from the perspective of residential architecture, art and individuality. This was the world of the 1970s, a period in which the notion of the “public” itself began to be questioned. It was Shinohara and his peers who first perpetrated the revolt against an architecture that had fallen behind the times and ceased to be relevant, and Sejima’s falling in with them was only a matter of course.
Born in 1956 and raised in a provincial “company town,” she found absolutely no sense of reality in social groupings that were based on the act of identifying as a local or national citizen of Japan. For Sejima, a legitimate sense of reality came only from herself and whatever stood within her reach. The starting point for her work consists in thinking about whether architecture can emerge from these two premises. In this way, Sejima established during her college career what would become the focus of her architectural thinking, through her study of housing, interiors, furniture – and, gradually, her own body.


This is how Sejima started to conceive architecture – by taking furniture as her starting point. The most straightforward example of this approach can be found in her early residential work Platform II (1990), which consists entirely of a scattered arrangement of units that integrate furniture with structure. Platform II represents Sejima’s attempt to fill a space completely with the smallest possible elements that convey a sense of tangible reality, based on her relationship to herself and the furniture that surrounds her. This is the essence of Sejima’s minimalist approach, from which all of her subsequent work derives – starting with a conception of furniture, and of interiors.


(英語訳:Darrylさん。ありがとうございました。)

妹島和世はどこから来たのか?

ドイツの建築週刊誌『Bauwelt』(http://www.bauwelt.de/)に妹島論をもとにしたエッセイを書きました。
これから英訳されて、ドイツ語訳されて、掲載される、ハズです。
日本で読めない可能性が高いので、さっそく本文をupします。
以下、本文。

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妹島和世は「建築」の教育を受けていない、と言ったら人は驚くだろう。しかし、見方によってはそう言えなくもないのである。なぜなら学生時代の妹島が学んだのは、「住居」であり、「インテリア」であり、「家具」であって、決して「建築」ではなかったからである。


1979年から81年にかけて、妹島は日本女子大学大学院の住居学専攻で、「住居」を専門とする教育を受けていた。
しかし、大学院の2年間に妹島が自主的に足を運んだのは、伊東豊雄の事務所と、バウハウスをモデルに東京の郊外に設立された東京造形大学の室内建築学科であった。当時の東京造形大学では写真や建築などの視覚芸術に造詣が深い思想家の多木浩二(1928-)が「西洋家具史」の講義を開いており、妹島はこれを聴講するために片道2時間の道のりをかけて通ったのである。
さらに妹島は、多木の助言により家具・インテリアの設計演習にも参加するようになり、週2日、年下の学部生たちに混じって設計や制作に汗を流した。大学院時代に妹島和世が「家具」を学んでいたという意外な事実は、日本でもあまり知られていない。


妹島が多木に興味を持っていたのは、学生時代の妹島が憧れていた篠原一男(1925-2006)の住宅作品の写真を多木が撮っていたからである。
未だ「建築」と言えば公共建築のことを指していた時代、だが「公共」という概念自体が揺らいでいた1970年代の世界に対し、住宅、芸術、個別性という視点から痛烈な批評を加えていた篠原、そして篠原の周囲に集まった多木、伊東といった人物たち。彼らこそが、失効しつつあった「建築」へ反旗を翻した張本人たちであった。
妹島が彼らのもとへと吸い寄せられていったのは必然であった。なぜなら、1956年に地方の企業城下町で生まれ育った妹島にとって国家や市民といった社会集団は全くリアリティのないものであったからである。彼女にとっての確かな現実とは「私」と「私から手の届く範囲」だけであり、ではそこから建築を考えていくことはできないか、というのが妹島の出発点となる。
このように妹島は学生時代を通して住居、インテリア、家具と、次第に「私」の身体へと建築的思考の焦点を定めていくのである。


こうして妹島は家具から建築を考え始める。それが最も直截に現れているのが初期の住宅作品<PLATFORM2>(1990)である。
家具と架構が一体になったユニットを分散配置しただけのこの住宅は、裏を返せば、「私」と「家具」という最小限の、そして妹島が確かだと感じられる関係だけで世界を埋め尽くそうという試みであった。
これが妹島のミニマリズムであり、彼女のその後の建築は、すべてこの延長上にある。
その始まりに、「家具」があり「インテリア」があったのである。

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けっこうイミフな気がしてきた。
壮大で厳密な話を、外国人に1000字程度で伝えるなんて、難しい。