妹島和世はどこから来たのか?

ドイツの建築週刊誌『Bauwelt』(http://www.bauwelt.de/)に妹島論をもとにしたエッセイを書きました。
これから英訳されて、ドイツ語訳されて、掲載される、ハズです。
日本で読めない可能性が高いので、さっそく本文をupします。
以下、本文。

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妹島和世は「建築」の教育を受けていない、と言ったら人は驚くだろう。しかし、見方によってはそう言えなくもないのである。なぜなら学生時代の妹島が学んだのは、「住居」であり、「インテリア」であり、「家具」であって、決して「建築」ではなかったからである。


1979年から81年にかけて、妹島は日本女子大学大学院の住居学専攻で、「住居」を専門とする教育を受けていた。
しかし、大学院の2年間に妹島が自主的に足を運んだのは、伊東豊雄の事務所と、バウハウスをモデルに東京の郊外に設立された東京造形大学の室内建築学科であった。当時の東京造形大学では写真や建築などの視覚芸術に造詣が深い思想家の多木浩二(1928-)が「西洋家具史」の講義を開いており、妹島はこれを聴講するために片道2時間の道のりをかけて通ったのである。
さらに妹島は、多木の助言により家具・インテリアの設計演習にも参加するようになり、週2日、年下の学部生たちに混じって設計や制作に汗を流した。大学院時代に妹島和世が「家具」を学んでいたという意外な事実は、日本でもあまり知られていない。


妹島が多木に興味を持っていたのは、学生時代の妹島が憧れていた篠原一男(1925-2006)の住宅作品の写真を多木が撮っていたからである。
未だ「建築」と言えば公共建築のことを指していた時代、だが「公共」という概念自体が揺らいでいた1970年代の世界に対し、住宅、芸術、個別性という視点から痛烈な批評を加えていた篠原、そして篠原の周囲に集まった多木、伊東といった人物たち。彼らこそが、失効しつつあった「建築」へ反旗を翻した張本人たちであった。
妹島が彼らのもとへと吸い寄せられていったのは必然であった。なぜなら、1956年に地方の企業城下町で生まれ育った妹島にとって国家や市民といった社会集団は全くリアリティのないものであったからである。彼女にとっての確かな現実とは「私」と「私から手の届く範囲」だけであり、ではそこから建築を考えていくことはできないか、というのが妹島の出発点となる。
このように妹島は学生時代を通して住居、インテリア、家具と、次第に「私」の身体へと建築的思考の焦点を定めていくのである。


こうして妹島は家具から建築を考え始める。それが最も直截に現れているのが初期の住宅作品<PLATFORM2>(1990)である。
家具と架構が一体になったユニットを分散配置しただけのこの住宅は、裏を返せば、「私」と「家具」という最小限の、そして妹島が確かだと感じられる関係だけで世界を埋め尽くそうという試みであった。
これが妹島のミニマリズムであり、彼女のその後の建築は、すべてこの延長上にある。
その始まりに、「家具」があり「インテリア」があったのである。

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けっこうイミフな気がしてきた。
壮大で厳密な話を、外国人に1000字程度で伝えるなんて、難しい。