なんで書いたのか

そういえばなぜ妹島論を書いたのか、ここに書いていなかった。


僕は2010年2月に妹島論を提出して、5月に隈事務所に入った。
第四世代のスーパースターに取り入ったのか?
それまでの天邪鬼なハットリはどこへいったのだ?…という感じだ。
(実際知り合いにはそういうふうに思われてたりするかもしれないし、それは考えすぎというか自意識過剰なだけかもしれない)


ひとつ記憶に残っているのは、「6Q」というイベントで論文を発表したときに、藤村龍至さんが「彼が妹島論をやらなければならない切実さが伝わらなかった」というようなことをtwitterで言っていて、確かに「妹島論」をなぜ今やる必要があるのか、ということは一度ちゃんと書いたほうがいいんだと思った。


修論を書くにあたって、僕は建築史を勉強したいと思った。ぜんぜん知らないから。
そして(少ないけど)いくつかの本を読んで、うーん書いてあることはよくわかるんだけど、これがどう今につながっているのかいまひとつ実感できない、と思った。
いったい今自分は歴史のどの時点にいるのかなぁと思った。
戦後モダニズムも遠いし、磯崎の言葉も遠いし、野武士の戦いは少し近づいた気もするけれど、やっぱりもっと遠くに来てしまっていて、みんな砂埃で霞んで見えるよ、と思った。


一方で自分の学生時代を振り返ると、嫌い嫌いと言いながらもSANAAの影響が強い時代だった。
べつに本当に嫌いだったのかといえば、嫌いと言うことで自分を保っていた感もあるし、いややっぱりここは違うだろと思う部分もあった。
しかし、盲信しようと拒絶しようとSANAAの猛威を確実に受けた世代なのは間違いない。
コンペ一等案の紙面をSANAA人間たち(SANAA風の添景)が楽しそうに食卓を囲んでいたりはしごを登っていたりするたびに「全員死にやがれコンチクショウ」と思ったとしても、その反発はSANAAがいなければなかった反発なわけで、ようするに彼らは時代を築き始めていたのである。


だったら、、それならばそのSANAAを、歴史のパースペクティブというやつで論じることができたら、こっち側から過去の歴史たちに触れることができるんじゃないか、とあるときひらめいた。


そうして、妹島論を書き始めた。


だから、妹島論は、妹島和世の作家論が目的なのではなかった。
妹島和世という稀有な、そして一見歴史となんら関わりの無さそうなサンプルからどこまで時間を遡れるか、ということをやってみたのだった。
だから、論文には例えばラスキンが出てくる。妹島とラスキン。なんじゃそりゃ。
でもそうやって強引にでもいいから昔のことを今のこととして感じたかった。


それから、時間軸だけではなくて横の広がりのなかでも妹島を捉えたかった。
だから、論文では「妹島は初のセカイ系(ちょっと古いね)建築家だ!」とか言ってみたり、ジェンダー論へつなげてみたりした。


そんなこんなで、なんか、少しは今自分がどこにいるのか、わかったのかな。
というのが、妹島論を書いた理由なのでした。