『表徴の帝国』byロラン・バルト

※内容紹介はWikipedia表徴の帝国」におまかせ。「意味から解放された日本世界の自由さを説いた」というのはどうかと思うけど。


この本はすごい。解説を読んでも「表徴」がなんなのかさっぱりわからないのに、なぜか問題なく読める。
というのは、この本自体がロラン・バルトの考える表現体(エクリチュール)になっているからだ。
では「なぜ彼の考えるエクリチュールなら意味不明でも読めるのか?」ということも考えつつ、個人的に気になったことだけメモる。


2つ、とても興味を惹かれたところがある。ちょっとだけ、以下に3カ所(それぞれ日本料理、生け花、枯山水について)引用する。

食べものを、食膳の上に書きこむのではなくて(…)、人間、食卓、宇宙が重層的に配置されている奥ふかい空間のなかに食物を書きこむ分断と抽出のしぐさ、このしぐさのおこなわれる領域、つまり書きこまれる料理、そういうものとして、日本料理は、ある。(p.29)


日本の花束は空間をもつ。(…)その枝と枝のすきまのなかに、人はおのれの身体をおしすすめてゆくことができる。その作品を書いた手の行程を、≪読みとる≫(その象徴を読みとる)ためではなくて、ふたたびあらたに自身のものとして辿りなおすために。こういう作品こそ、真の表現体(エクリチュール)なのである。なぜなら、これは空間(ヴォリューム)をうみだすのだから。(p.74)


≪禅の庭≫
どんな花もない、どんな足跡もない。
人間はどこにいるのか?
岩石の搬入のなかに
箒の掃き目のなかに
つまり表現体の働きのなかに、いる。(p.126)


まず気になったのは、よい「エクリチュール」について語るときに「空間(ヴォリューム)」という単語が出てくること。しかも、「生け花の枝と枝のすきま」とか「てんぷらのすきま」とか、かなり日本の「間」の概念に近いものに対して「ヴォリューム」という西欧語が出てくる。
ということは、「ある空気的な広がり」という意味ではなく、日本的な「空虚=意味の不在」が、反転して時間的・空間的な「奥ゆき」として感じられるもののことを「ヴォリューム」と呼んでいるのだろう。その証拠に、「奥ふかい」「身体をおしすすめてゆく」という表現が見られる。きっと、吸い込まれるような感覚なんだろうなぁと想像する。


それから二つめは、よい「エクリチュール」は、その製作者の「手つき」を見た人がもう一度自分の体験として辿れるらしい、ということ。
まず、石庭を見て「人間はどこにいるのか?」と考えるところが面白い。でも「作者」とは言わない。「手の行程」あるいは「働き」という、わりと人の意志や意味づけとは切り離した言葉で書いている。
で、そうした過去における働きに自分を同化できるというのは、ようするに自分が時空を超えて同時に存在することが可能になるということだ。それがエクリチュールの「奥ゆき」の正体な気がする。そこにはもはや作者も読者もなく、エクリチュールに結びつけられた人たちの静かな共感だけがある。
それは「意味をもたない物語」が立ち上がっているような感じかもしれない。


‥‥というわけで最初の問いに戻ると、「だからロラン・バルトエクリチュールは、意味不明でわからないとこが多くても読める。」ということになる。なるって言われても困るか。説明端折りすぎだし。まぁまだ読んでない人はぜひ読んでみてください。普通に笑えるし。


たぶんこの話は「青木淳で考える」で書いたことと関係がある。