批評家はだれだ!:『思想地図vol.3』東浩紀・北田暁大編

巻頭の討論「アーキテクチャと思考の場所」を読んで、それから「『東京から考える』再考」を読んだ。
原武史が出て来て、あぁやっぱりいいなこの人、と思った。というかやっと読める文章になったよオイ!と思った。


・批評は何処へ
端的に言って、東、宮台、宇野(この人は初めて聞いた)の3人は確実に「批評」などできないと思います。
批評的なことばさえ「島宇宙」で消費されちゃうとか、イタいことをやらないと公共的な議論ができないとか、めちゃくちゃなことを言っている。ひとを名指しで批判するブログにしたくないので今後彼らについては書かないと思うけど、今回だけ、きっちり言い切っておこうと思います。この人たちは「批評」がまるでわかっていないんじゃないでしょうか?


・おおきな間違い
東による導入はのっけからダメ中のダメ。

(…)かつての権力の担い手といえば、国家、官僚、資本家階級など、ある種の人格をもった、じつにイメージしやすい存在でした。したがって、政治家や経営者を批判すれば、そのまま権力批判になりえたわけです。しかしいまや、権力の担い手というのは、ネットにしても市場にしても、あるいは「グローバリズム」や「ネオリベラリズム」という言葉でもいいんですが、もはや人格を備えたものとしてイメージできない、不可視の存在に変わりつつある。
(…)たとえば最近であれば、派遣社員の打ち切りが問題になっています。深刻な問題です。しかし、その原因である世界同時不況がどうやって作られたのかというと、複雑かつぼんやりとした話になってしまい、誰が悪いとは簡単に名指せない。
では、そのような状況下で思想や批評は何をすればいいのか。これはとても難しい問題です。なぜならば、批判的に思考するということは、たいていの場合、権力批判や社会批判を意味してきたからです。しかし、批判すべき対象が人格をもたない鵺的な存在になってきたときに、批評の言葉はどこに向かえばいいのか。もしくは、思想や批評なんていらないのだろうか。(…)(p.13-14)

3つ言いたいことがあります。短く言うと「複雑でぼんやりした問題をなんとか解明しようとは思わないのか」「国家や官僚や資本家階級を批判することは批評なのか」「あいかわらず『支配される私たち』ベースの考え方だ」の3つです。



・「すでに起きてしまったこと」のコピーライター
たとえば先の金融危機の「現場でなにが起きていたのか」について、アメリカウォッチャーの町山智浩なら自分なりに集めた情報でしっかり伝えています。たとえば彼が紹介したドキュメンタリー映画の「Maxed Out」はアメリカ人のカード借金地獄と、それを食い物にするシティグループなど大手銀行の実体を暴いています。他にも、ブッシュのダメ政策を下支えしたキリスト教福音派勢力のことやメディア王マードックによる世論操作など、複雑な問題のピースとなる普通の日本人なら知らないような事実を、アメリカに住んでアメリカを体感しながら情報発信しています。それから、アメリカ版「郊外化」のウォルマート問題も、その名も「WALMART」という映画で、新店舗の開業に州政府による大幅な減税がされているという唖然とする事実が暴かれています。(YouTube『松島×町山 未公開映画を観るTV』おもしろいよ!)
もちろんそれらを知ったから直ちに世界を治療できるというわけではないけれど、少なくともそういう事実を知っておけば次に似たようなことが起きたときにこっちとしては警戒できるわけです。


それに引き換え、どんどん先に進んでいく現実のあと追いをして「郊外化」「島宇宙」「動物化」とコピーを名づけるだけ名づけ、それら出来たばっかりのジャーゴン(専門用語)を振り回されても聞いているほうとしてはなんの利益もありません。そんな状態で「批評も島宇宙でしか通じない」と嘆くのはお門違いも甚だしく、単純におもしろくてためになれば人は聞きます。
今回の「アーキテクチャ」もかなり危険で、現実にある問題に対して緻密な分析をする前にそそくさと「名づけ」をし、頭上60cmくらいに浮かべて議論し始めているように見えます。というか何の議論をしているのかさっぱりわかりません。


・問題を片付けるんじゃなくて、目に見えるところに置いておくこと(内田樹風)
言いたいことの後ろ2つは同じことを言っていて、「問題をすべて片側に押しつけて糾弾する」という姿勢のどこが批評なのかということです。たとえばヒトラーが悪いとか資本家が悪いとかオウムは気持ち悪いとか言うことは簡単で、そんなことはわざわざ批評家が言わなくてもわかっていることです。ではなく、「なぜ時として人はヒトラーの言うことを信じてしまうのか」「なぜ自分は金がたくさんあると偉そうになるのか」「なぜ私はオウムの加害者にならなかったのか(場合によってはなったのではないか)」という、ドキッとする一言を発するのが批評家の仕事じゃないでしょうか。それを聞いてドキッとするのは、「被害者」という場所に安住していた「私」と「加害者」に接点があることを暴き、「私」に考える契機を与えるからです。「アイツが悪い」なんて言ったらみんな安心しちゃってばかになるだけで、それは確実に「批評」ではないと思います。


原武史村上春樹は似ている
2年前に読んだ原武史の『滝山コミューン一九七四』は、鬼おもしろくて、こんな文章があったかと感動したのを覚えています。(内容説明はしないので、まだの人はぜひ読んでください。)
で、やっぱりこれは文学だなと思うのです。小説家の高橋源一郎が激賞してるんだから間違いありません。そしてどうやって書いているのかと言えば、村上春樹とそれほど変わらないように思います。まず、とてもとても入念な文献調査やインタビューがあり、その緻密さは、次第に問題を「いま、ここ」に空間として再現します。つづいて、地表に空いた穴か井戸のようなその深い闇のなかへと、次第に自分の身体を降ろしていき、そうして暗く湿った底で「顔」に出会う。「顔」とはなにか、村上春樹アンダーグラウンド』を読めばよくわかると思う。
もちろん『滝山〜』は自身の体験をベースにしているし、暗い闇というよりは愛憎混じった淡い思い出のようなものだけど、あれは物語と呼べるんじゃないかと思います。そして、そういうものが批評となりうるのだと思います。


よい小説家とよい歴史学者は批評性を持つ。そして「建築家」もその職能を広げていけば、批評家と名乗るひとよりずっと批評家になれると思います。ゼッタイ。


専門に「〜史」とついていない人文系ってのは、今後は警戒しよう!と思わざるを得ないほど、『思想地図』に幻滅しました。残念だニャー