『思想地図vol.3』「グーグル的建築家像をめざして」by藤村龍至

『思想地図vol.3』、買ってきました。まずは「グーグル的〜」について書きます。


藤村さんの文章は筋が通っていて非常に読みやすく、現状認識はかなり鋭いと思いました。たとえばアトリエ派と組織派の乖離にはとても納得したし、僕も組織設計に入って批判精神にリミットをかけられたり、アトリエに入って「わかるひとにはわかる」的な小品を作って一生を終えたくないと、読みながら思うのでした。組織設計にしてもアトリエにしても、もはやたいした批評性はなくなってしまったと僕も思います。
たぶんそれは働いている人のせいというよりは、組織(組織設計のことじゃなく)が凝固してしまったせいです。組織設計もアトリエも、どちらにせよ容易に職場のイメージついてしまう現状がいけない。OMAのようにリサーチ機関を抱えるだとか(手法のずらし)、コンサル的な仕事をやるとか(職能のずらし)、とにかくクリエイティブな集団というのは絶えず己の位置をずらしながら、アメーバのように変形していかなきゃいけないのだと思います。この時代につねに批評的であるためにはそれぐらいのバイタリティがいる。
組織設計、アトリエ、ディベロッパー‥‥なにこの選択肢の少なさ。いくつかの「型」から就職先を選ばなきゃならないなんてやんなるね。。と言ってても始まらないので、どこに就職するにせよ(いきなり自分の事務所開くにせよ)思いっきり攪乱してやろうと思いました。


「超線形設計プロセス論」の有効性についてはまだ判断すべきじゃないと思います。「スピードと複雑さ」とあるように、多様な建築が猛スピードで量産されたら大成功ということだし、これから長いあいだの実績で判断されるべきことだと思います。でもだからと言って静観してもおもしろくないので(多分藤村さんも批判来いよ!な人だと思うので)僕なりに思うことを書いてみます。
「超線形設計プロセス論」によるスピード対応と「ログ」という政治的共犯装置(これは批判ではありません!)はとても有効だと思います。この時代に、全員の了承を得ながらなおかつスピーディーに案をまとめていくには、とても実用性の高い手法だと思います。
とくに「ログ」のすごさは、(穿った見方ですが)たとえば最終的にビルバオのような形態に落ち着いたとしても、文句は言えまいというところです。藤村さんは、「コンピューター・アルゴリズムによる設計は、デザイナーが恣意的に設定した関数によって奇抜な形態を生成する一種のフォルマリズムであると見られてしまいがち」と書いていますが、いつ「超線形設計プロセス論による設計は、デザイナーが恣意的に設定した決定ルールによって奇抜な形態を生成する一種のフォルマリズムであると見られてしまいがち」になってもおかしくはないと思います。ですが、「ログ」があるからこそ、それが防げるのではないでしょうか。両者の違いは、手の内を明かしているかどうかという点だけで、どちらも恣意的だと思います。
「超線形設計プロセス論」でもなんでも、設計における恣意性は不可避です。有限個の決定ルールを適用するということは他を適用しないという決定を暗にしているわけで、それはどうしたって恣意的にならざるを得ません。「ログ」のよさは、変数を導入するときに一個一個目に見える形で確認するところで、それが手の内を明かすということです。だから、藤村さんの言うようにコンピューターの演算速度が上がって、膨大な変数(コンテクスト)を扱い初め、模型化が困難になり、CGドローイングになり、、というふうになってしまったら、「ログ」はただのアーカイブとして事後的に確認ができるだけのものに成り下がってしまうのではないでしょうか?いまの「変数が少ないから全部模型にできる」ことが決定的に重要な気がします。


もう一つ、気になる点。「超線形設計プロセス論」は「ツリー・システム」だと思いますが、その場合「最適解」が採用されない可能性が大いにあります。
たとえば3つ解かなければいけない問題があって、3つを同時に考えると可能であるはずの解が、一つ一つ解くことによって選択されないということが容易に起きるんじゃないでしょうか。「はい・いいえ」の矢印で質問に答えていったら「あなたのモテ男度はゼロ%です」に行き着きました、みたいなむなしさ。とくに、その3つの問題が設計プロセスの離れた場所にあった場合や、問題がいくつあるか最初からわかっていないとき。まぁ別に最適解を求めるわけではないし、かえって面白くなるかもしれないんですが、単純に気になります。


とりあえず感想はここまでですが、藤村さんのとても明快かつ潔い姿勢に勇気づけられました。(個人的には「超線形設計プロセス」が正しい手続きの上「ぐにゃぐにゃ建築」を生み出したら面白いなぁと思ってます。)