はじめまして
はじめまして、服部一晃です。
僕の略歴はプロフィールに書きましたが、まぁわかることは「学生さんか〜」ということぐらいです。だから見なくてよいです。ブログのプロフィールを見て「本文の理解が深まった」という話はあまり聞かないし、むしろ「知らない人について少し詳しくなってしまった」という妙な気分にさせることが多く、プロフィールは危険です。身近に潜む危険。しかし見たくなる気持ちは誰にでもあって、僕も誘惑に負けてついプロフィールを見てしまい行き場のない気分を味わうことが多々あります。それがプロフィールのつらさですが、さらにすごいのは「顔写真」です。ブログに「顔写真」を載せる妙なきまりの悪さは誰しもあるかと思いますが、ブログに限らず「顔写真」はさらなる猛威を振るいます。文庫本の表紙カバー裏とかに印刷してあるあれです。僕は作家の「顔写真」を見て驚愕しなかったことがありません。「こ、この人の本を読んでいたのか!」、です。顔を知ろうが知るまいが「この人」の本を読んでいることに違いはないのに、わざわざ驚くのです。「顔写真」を見た人はこのようにばかになる可能性が高い。「顔写真」はあまりに危険です。だが今日も私たちは文庫本を手に取り、不幸にもその表紙カバーをめくってしまうのです。
記念すべき最初のエントリーが「です・ます」調の宮沢章夫風の文章になってしまった。しかもまるで意味がない。だがここにはおそらく「なってしまった」のではなく、「進んでそうしなければならなかった」理由があるのだと思います。僕は当初「僕はなぜこのサイトを始めなければならなかったのか」について「卒業設計とそれ以降の自分」を振り返りながら語るという、肩がこりそうな仕事に取りかかろうとしていたのですが、書き始めてみたらまず「プロフィール」というもの(話のタネ)を見つけてしまい、そこに突き進んで行ってしまいました。そして「戻るか」と思った頃には手遅れで、「そんな七面倒なもの書いてられるか」という気分にさえなっていたのです。
おそらくこれは、当初書く予定だったものに対して僕自身の身体が「なんか違うな」というシグナルを発信し、それを僕自身のべつの身体(この場合は手)が受信したからだと思います。あ、そういうことなのかと今考えている頭は一番遅れて登場している。そしてたぶん、書かなくてよかった。それは僕が大嫌いな"20世紀的文章"になってしまったと思うのです。"20世紀的文章"とは何なのか、ここでは書きません(20世紀に書かれたものという意味ではありません)。ですが"21世紀的文章"の書き手である映画評論家の町山智浩さんから僕は次のようなことを学びました。
"21世紀的文章"を書くためには、
1. 誰も知らない客観的事実を見つける。
2. いくつかの事実を持ってきて順番に並べる。
3. 笑える。
これだけでいいのです。町山さんがこのように言ったわけではないのですが、ポッドキャスト『町山智浩のアメリカ映画特電』を聴いていて僕はそう思いました。
1.は地道な勉強でしか得られません。そして2.で既知の事実や自分の発見を取捨選択して上手につないで物語をつくります。ここはセンスが問われるところです。あとは3.ですが、これが難しいです。まず自分がおもしろがっていないとダメだし、それを「読む人にわかるように」書かないとダメです。これを言い換えると「書く対象が好きであり、かつ、みんなにも好きになってもらいたい」という心の持ち主でないとダメなんじゃないかということです("20世紀的文章"はこの点が欠落しています)。そして先ほど「頭より身体が先に動く」ということを書きましたが、好き嫌いは頭より身体のほうが正直なので身体を信じているほうが安全だということです。手が書きたがっている文章がいい。
僕は建築についてなにか書いていくことを決めました。たぶん建築をもっと好きになろうとする気持ちがあるのだと思います。書くことで書く対象を好きになりたい、というときこそ"21世紀的文章"で書かねばならないと思います。漠然とながらそのように「書くときの姿勢」をイメージしていたため、冒頭の文章が出てきたのだと思います(内容は建築ではないですが)。ただしまだ僕は見よう見まねでしか書けない。だから宮沢章夫の文章にそっくり身をゆだねて書くことで、なんとかウォームアップを図ったわけです。わけですというか、今考えたんだけども。
たぶん旧友がこの文章を読んだら、僕が「とても背伸びして書いている」ことも「誰と誰のまねをして書いているのか」もわかっちゃうと思います。しばらくはそれも仕方ないと割り切って、それでも続けていくことでなんとか軌道に乗せたいと思っています。
というわけで建築をめぐるさまざまな話をしていきます。よろしくお願いします〜。(ブックマークよろしくね)