日本に「公共」は未だ存在せず

「公共」という概念は、いまだ日本に根付いていない。たとえば「公共建築とはなにか?」と言われたら、日本人はこう答えると思う。

「誰のものでもない、みんなのための建物」

合ってる。合ってるけど、全然違う。もう少し言い方を変えると「誰かの私利私欲のためではなく、みんなの利益のために使われる建物」ということになるけれど、この一見正しそうな解釈こそが、日本を「公共」という考え方から遠ざけているのである。

試しに上の解釈のあとにどんな言葉が続くか考えてみる。
「誰のものでもない、みんなのための建物、なのでキレイに使いましょう」
いきなり「規制」だ。言葉は柔らかいが、もし壁にお絵かきでもしようものなら管理人が飛んでくるに違いない。まぁ、図書館でとつぜん壁にグラフィティを描きはじめるような奴は捕まって当然だが、こういう「公共」の解釈しかできないことで、案外日本人は不幸になっている。


さきに結論を言ってしまうと、僕は、
「公共」とは、「誰のものでもない」ではなく「僕のものである」と解釈するべきだ
と思っている。それは9ヶ月パリに住んでわかった大事なことの一つだ。あの街のすごいところは、旅人とさして変わらない新参者かつストレンジャーな僕ですら、パリという街それ自体と、セーヌ河畔の公共建築群は「僕のものである」と感じさせるところだ。(ただし移民がどう思っているか、という問題はある)


みんなが「僕のものでもある」と主張すると、かならず衝突が起きる。それをどう解決するか、というのが「公共」を考える上でのキーポイントである。

日本がとったスキームは、「みんなに迷惑が掛かるようなことを管理者が全て事前に規制する」というもので、「不測の事態が起きたときの責任は管理者」ということになる。こういう考え方は管理者だけではなくて、利用者も暗黙に了解している。だから利用者は、不快・不便を感じたときには管理者に「クレーム」を提出する。すると管理者はそのつど「禁止事項」の項目を増やしていく。そうすれば「クレームのない社会」ができあがる。よくテレビで、ちょっとした言葉遣いが「不適切発言」になって番組中に謝罪ということがあるが、よくまぁ迅速にクレームをつける視聴者がいるもんだと感心してしまうほど、日本の利用者はこういう「公共」に慣れ親しんでいる。

一方、おそらくパリのスキームは「何をどこまでやっていいかは、個人で考えろ」というもので、「問題があったときの責任はおまえ」ということになる。不快に感じた人は「その場で個人的に怒る」。こういう国だから「個」というものが尊重されもするし、自分で立派に磨き上げないと使い物にならなくもなる。もちろんみんながまっとうな大人にはならないので、日本のような完璧な安全と快適は得られない。たとえばパリの「パレ・ド・トーキョー」はスケーターがたむろしており、外部床仕上げの石のパネルはバキバキ割れている。ひどいものだ。でも、まぁ建物が傷つくくらいで、そこまで迷惑がかかるわけでもない。別に怒る人がいなければ、それでOKという街なのである。


ようするに、パリでは「公共」とは「個」が試される場所なのである。

というか、そのようにして同時に「公共」と「個(私)」というものが生まれるのである。

「公共」というのは人間が複数で生きるということであって、であるからこそ問題の発生ポイントでもある。そのなかで、自分の責任のもとでどう判断するかというときの主体として「個」が発生する。僕はこの「公共観」は市民社会の基本であると思う。パリが日本よりも安全でなく快適でもないことはパリ固有の問題であって、こうした「公共観」そのものが日本の「公共観」よりも劣っているのだという推論は間違いである。


公共建築をつくるとき、あるいは建築の公共性(それは個人住宅であっても構わない)を考えるとき、建築はこういう「公共」と「個」を教化するものでなければダメである。「教化」というとなにやら押しつけがましく聞こえるかも知れないが、実際は逆で「利用に際してはなんにも押しつけない」ということになる。
そこから考えられることの一つとして、「出来たときが一番美しい建築」をつくる建築家が山ほどいるけれど、そんなヤツらはばかだという事だ。純白の壁は「汚してくれるな」という強い主張にしかならない。だって、踏んだり蹴ったりして壊れる建築、あるいは張り紙一枚で美学が崩れる建築って、でかい体してどんだけひ弱なんだろうか。対人恐怖症の横綱かおまえは。
それから、床面積がきつきつなのもよくない。「余裕」がないとつい他人に文句言いたくなるのは、人も建物もいっしょだ。だから、同じコストで床を2倍つくるラカトン&ヴァッサルのやり方は、極めて有効だ。ほんとうに、人も建物もいっしょだ。「余裕」と「威厳」があれば人はなつく。(ただし「余裕」と「威厳」を同時に満たすためには、基本的には莫大な金と時間がかかる。そこでラカトン&ヴァッサルは「威厳」を捨てて「余裕」を取った。中途半端な「威厳」すら捨てたので、逆に「友達」みたいな気楽さを手に入れた。)


こういう「公共観」からスタートすれば、建築の評価もがらっとかわるものだ。