意志について:ドットアーキテクツ展

伊東豊雄の「座・高円寺」を見た帰りに、プリズミックギャラリー(http://www.prismic.co.jp/gallery/index.html)にふらっと寄る。展示は「ドットアーキテクツ展」。
ドットアーキテクツ(http://www.tcct.zaq.ne.jp/dot/index.html)は30代の3人からなる若手建築事務所で、藤村龍至の「Live Round About Journal」で初めて知った。(とはいえ、僕が会場に着いたときにドットの発表は終わった。)


彼らのコンセプトは「超並列」。
「超並列設計プロセス」なるものは、次のように説明されていた。

1. 3人によって、抽象度の高いレベルで話し合い方向性を見いだす。
2. 3人がそれぞれ、プラン、ディテール、模型を担当し、並列的に進行させて行く。そこで現れるズレを内包した副産物的生成物を生み出す。
3. 副産物的生成物からフィードバックし、改めて並列的に進める。

上の写真は「超並列模型」と呼ばれる実験の結果で、複数人の学生達にルールを与えてつくらせたものである。ルールは、

・「周りを見て、ここにこんなのあればいいのにな〜」を大切に!全体の調和にとらわれないこと。
・ホームセンターで買えるもので作り、地元の大工さんに手伝ってもらえばできるものが好ましい。
・みんなで話し合いながら進めよう。批判ではなく、みんなで作る雰囲気を大切に。
・他の人が作ったものにもどんどん手を加えよう。自分の作ったものに執着しない。
・床、壁、天井があるような空間を考えよう。
・それまでの機能、用途が変わることを躊躇しない。

ということである。


「超並列設計プロセス」。
名前がいただけないのはさておき、プランとディテールと模型が互いをあまり参照せずに同時に進行する、というのはなかなか面白い。
普通は「ひとり」の建築家が行き来する。だから、模型から発想することがあっても、ディテールを考えてプランが変わることがあっても、「同時=並列」というのはまずない。わざとズレが生じるやり方をして、そのズレを設計に生かす、という方法には実験的おもしろさがある。


つまり、「ひとりの人間の意志」が反映されないようになっている。

家成:建築家がコンセプトやダイヤグラムを示して、そこからかたちができましたというのは、どうも違うんじゃないかと思っています。対してローカルな関係を徹底的に展開していった時に出て来たかたちには、施主や職人さん、極端にいうと非専門家の人も建築のプロセスに介入してこられる可能性がある。
藤村:共感しますね。(『1995年以後』p.212)

こういう方向へ建築を押し広げていくのは、とても素直だと思う。「僕らの考えているモデルは社会そのものでもある」と言っているように、これからの時代の人間のつながり方、働き方をなんとか建築設計という小さな地球で試しているのだと思う。


しかし、かなり大きな問題が残る。「超並列模型」を見ると、アジアの混沌とした都市ができている。建築を「つくるもの」、都市を「生まれるもの」としたら、見事に乱雑な都市が生まれている。ただ、僕らはそれを見て何か評価できるだろうか。
つまり、それが僕にとって一番気になるところなんだけど、誰かの意志で作られたものにしか、批評は成り立たないんじゃないかということだ。
だから、「超並列模型」を形作った「ルール」自体はドットの作品として批評できるが、出来た模型は批評できない。むしろ、模型のほうが投げかけられる言葉を期待していない。本人の意図とは反対で、作品としてはかなり閉じている。「超並列模型」にシミュレーションとしての価値以外の、建築としての価値をどう見いだせるか、というのがドットに突きつけられる問題だと思う。
それから、施主や職人が建築のプロセスに介入してくるときのデメリットが、「超並列模型」には(もちろん「住宅No.00」にも)色濃く出ている。それは、表現がとってもコンサバティブということだ。当たり前だけど、この世のほとんどの施主と職人はコンサバティブだ。そうした人たちと共同作業するメリットがまだまだ見えてこない。


とはいえ、コンピューターネットワークを援用した建築の理論はまだまだこれから発展するだろうし、そういう道もありそうだくらいの共感はしている。