(第2回)『1995年以後』藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT編著

僕は84年生まれ(早生まれなので83年組)で、小中学校がだいたい90年代と一致する。ついでに高校から大学院がほぼ00年代。『1995年以降』の32組のインタビュイーの、ぎりぎり下にいる世代でしょうか。というわけで世代論的には、一歩引いたところからすぐ頭の上を見上げるような形で読むことになりました。


・自分に驚ける本だ
32ものインタビューを読むと、当然半分くらいはピンと来ず、いくつかは深い共感を覚えます。まさに32もあったおかげで、自分がどういう反応をするのか手に取るようにわかる。それがこの本のとてもよいところだと思います。僕個人のハイライトは、長坂さん・倉方さん・中山さん・石上さん・田中さん・永山さん・勝矢さん・長谷川さん・大西さん+百田さんというラインナップになりました。(健康的に)生意気な建築学生の一員である僕は、もちろんこの内の何人かに意味なく批判的だったりしたのですが、読んでみると考えていることや感性が非常に近いことがわかる。だからこのラインナップは自分でも意外なのです。自分自身の発見にこれほどぴったりな本はちょっと他にないな、と思います。


・二つのあり方
読んでいると「社会を構成するシステムの内側から批判的に方法を抽出したい派」と「建築固有の物語やヴィジュアルの力に執着している派」の二つのあり方が見えてきます。前者は「直接的に社会問題の病巣に到達したい」という気分があって、後者は大西さんの言葉を借りれば「自分の半径30メートル以内のことから「社会」を考えよう」という気分が背景にあるように思えます。そして僕は後者に可能性があるのではないか、と感じています。というのは、後者は最近ではベタな「古くさい建築観」なのですが(と言っても新しいですが)、それを言ったら前者はけっこう「古くさいイデオロギー」に陥りがちなのです。

個人の影響力というよりは、運動としての影響力をつくったほうがいいと思っていて、(略)まず建築家の間でこれからの都市や建築についてどう考えれば良いのか、問題意識や思想を共有する。次にそこで共有された思想をメディアの力で社会全体に広めて行く。そうやってだんだん議論を拡大していけば、多少時間が掛かるとしても、経済や政治のレベルにも確実にリーチできると思うんです。(藤村、p.61-62)

これを読んで僕は「なんかこわいなぁ」と思ってしまいました。「システムの内側に潜り込む」こと自体の有効性に疑いはありません。ただ、仮に「正しいこと」や「よりよいと思われるもの」が見つかった場合、なにかそれが運動によって一気に広まっていくのをよしとする雰囲気がここにはあって、それは「〜イズムの芽」だと僕は思うのです。工学的かつプロセスがオープンなら、誰もが納得でき検証できる「正しさ」を得ることができるかもしれません。でも、だからこそそういった「正しさの強度が強い正しさ」が運動となって広まることについては、いくら正しかろうと僕はNOと言わざるを得ません。それはイデオロギーが跋扈する時代への逆戻りだからです。
大西さんのように個人の周辺からスタートすることには困難が付きまといます。それは「正しいのかどうかわからない」であって、さらに言葉を持たなかった場合「理解されにくい」です。ただ、僕はそういった引き裂かれた状態から「建築」というコミュニケーションを立ち上げることに重要性を感じます。それは「工学」に対して「文学」に近いものである気がします。この問題の周辺を、以下でもう少し考えたいと思います。


・システムと文学、そして建築
村上春樹エルサレム・スピーチについて内田樹がブログに書いています。http://blog.tatsuru.com/2009/02/20_1543.php
「壁=システム」のメタファーにこめた前半部分は、誰もが感じていることだと思います。『1995年以降』の32組とも共有できる話ではないでしょうか。ただ、そこから先の、「文学」が「卵」の「固有性」を描き出すことができるのだという確信に対して、藤村さんたちの「批判的工学主義」はどのような立場を取るのでしょうか。「世界をよりよくしていくためにシステムを内側から変えていこう」とする態度は間違っていませんが、それによって必ず生じる「弱者」に対しての想像力を同時に用意していなければ、結局それは新しいコミュニケーションとなり得ないのではないでしょうか。
大西さんの「半径30メートル」、中山さんの「このシーツは安すぎるという想像力」、永山さんの「今、ここに生きている」、長谷川さんの「建築と普通の住宅がどう同じなのか」などは、同じことをいろんな角度で言っているのだと思います。つまり、建築における文学的感性です。僕は、端的に言って、「批判的工学主義」は正しい、だからこそ「文学」に接続することが必要なのではないか、と考えています。
建築には工学と文学の両面性があり、政治であって芸術であるというおかしな二面性があって、だからこそ、その両者の間でもがくことによって「建築」は人々の共感を得られるのだと思います。なぜならそうした二つの力の間でもがくのが「人間」でもあるからです。建築が建築の問題の内部でもがくことは、必ずしも「閉じている」わけではないし「他者に語りかけていない」わけでもないと思います。よく講評会で学生に対して「社会性がない」というような批判がありますが、僕はこれに対してはかなり反発しています。建築<から>社会へコミュニケートしていくには長い道のりが必要ですが、建築に固有の言語、つまり石上さんの「建築固有のリアリティと具体性」、禿さんの「ストーリー」、大野さんの「イメージ」、田中さんの「ビジョナリーな能力」、藤原さんの「言語を慎重に避ける」というコミュニケーションツールをもっと深めて運用していくことでしか建築の将来はないのではないか、と思うのです。
「文学」という考え方を持ち出して「建築」を説明しましたが、建築=文学だという主張ではありません。内田樹が言うように「語りえぬものに寄り添う」のが文学だとしたら、「語りえぬ未来」に寄り添うのが建築であったらいいな、ということです。


「批判的工学主義」批判のような文章になってしまいましたが、僕は藤村さんたちTRAの活動を通して自分の考えを明文化する機会を得ています。ここに書いたレビューは「僕がいつも思っていること」ではなく、本を読んで反応し、その場で考えたことです。『1995年以後』のいいところは、矛盾や多面性をそもそも内包しているところです。だから僕も考えやすい。そういう意味で『1995年以後』はかなりよい「議論の場」だと思います。