野又穫と須藤由希子

野又穫さん http://www.operacity.jp/ag/exh56.html(オペラシティでの展覧会ページ)
須藤由希子さん http://www012.upp.so-net.ne.jp/mahalo/


このお二人に関しては、実際に作品を見たわけではなく、ふらふらっと知った。で、なんとなく最近の建築の2大潮流じゃないかと思った。
野又さんは空想上の孤高の建築を描く。絵には人が描かれず、モチーフはどこかヨーロッパや古代文明を感じさせるものばかりだ。建設中を示す足場が描かれることもあるが、ユートピアの建設中というよりは、断念され放置され廃墟と化したユートピアの断片といった印象を受ける。時間は止まったままだ。
須藤さんはありふれた日常的な建築、そして庭を描く。住宅街のつまらない一軒家やアパートに鉢植えや雑草の緑が繁茂する。こちらも人はいない。日々の小さな出来事にあくせく生きる人たちが生み出す無垢な風景は、人が描かれないことによっていっそうの寂しさと愛らしさを見る人に与える。


宮沢章夫さんがブログで、秋葉原と中央線に注目していると書いていた。

「港区的なもの」とはまったく無縁に、先にあげた「秋葉原」が存在するのと同時に、「高円寺」を中心とした「中央線沿線」という文化圏があって、二つの方向から、「港区」を挟んでいるように「〇〇年代」の地図を読むことができる。(『富士日記2.1』12月12日日記より)

ここから僕は、野又=秋葉原的、須藤=中央線的、という風にしたらどうかと思う。どうかと言われても困るが。
秋葉原的なものは「ここではないどこか」という幻想を立ち上げ、それを共感する。多くの場合「ここ」にリアルを感じない、あるいは感じたくない人たちによって担われることが多いと思うが、そう簡単に言ってしまうのもどうかと思うので、とりあえずそんな感じと思っておく。野又さんの絵は、時間的空間的に遠い国を思わせつつ、それが同時にノスタルジアを喚起する。それを僕たちは共有できる。
中央線的なものは、秋葉原とは対照的に、自分周辺の細やかなものにリアルを見いだす(たぶん)。そのちっぽけさや無力さが愛おしくもある感じ。中央線的は、もうちょっと範囲を広げて、杉並+世田谷にしたい。というのはfishmansが『宇宙 日本 世田谷』を出しているからだ(佐藤伸治は自由が丘に住んでいた)。変わらない日常やけだるさ、ぼんやりと過ぎ去っていく時間に対するさびしさと後ろめたさ。そういうものに対するねじれた愛情のようなもの。こういう感覚はたぶん90年代に醸成した気分で、やまだないとの『西荻夫婦』なんかにも同じ空気が流れている。
西荻夫婦』に関しては夏男(ソムリエ)さんのブログhttp://blog.livedoor.jp/captainsummer/archives/1102664.htmlにあるレビューに共感する。(というかこのブログ発見できてうれしい。僕が苦手な漫画の世界への導き手になってくれそう)


私的で詩的なイメージ、という点では両者とも同じだ。だから「社会性がない」と批判される建築学生の作品の多くはこのどちらかに分類される。でも今のところ、この二つが「港区」に対抗する勢力なのだ。秋葉原でも高円寺でもない、次の文化は東京近郊のどこから生まれてくるのだろうか。それはお楽しみだ。


※ちなみに上の分類でいくと、僕の卒業設計は秋葉原的で、「青木淳で考える」第8話に登場した友人のYの卒業設計は中央線的だ。