足し算芸術としてのアニメ(5)

第5回。なぜアニメ表現論を長々と書いているかは次回説明するので、今は進めるのみ。

                                        • -


◯続・装飾について
けいおん!』『けいおん!!』(2009〜2010年、原作:かきふらい、監督:山田尚子、制作:京都アニメーションTVシリーズ全14回+27回


さて、前回扱った『ピンドラ』は装飾芸術の極地であった。サンプルとしてはちょっと変過ぎる。では装飾的足し算のもっともわかりやすい例は何かというと、「唯のTシャツ」である。


日常系(空気系)アニメと呼ばれる『けいおん!』の主人公が着るTシャツには、いつもどうでもいい変な文字が書いてある。そりゃ4コマ漫画原作の脱力的なゆるいギャグアニメなんだからTシャツが馬鹿げていてもいいでしょ、と思う人がいるかもしれない。だが、『けいおん!』はだいぶリアリズム寄りの作品だ。変な文字が書いてあるのはいいとして、それを見た同級生たちが誰もTシャツに触れない、つっこまない、というのは明らかにおかしなことなのだ。
けいおん!』という作品は、高校時代の些細な日常を丁寧に描くことで多くの人の共感を得てきた。そのためには、実在する街や学校を緻密に描いた背景画、本当にありそうな教室の備品や小物、誰もが友達と交わしてきた無意味でくだらない懐かしい会話、放課後の校庭に満ちる夕焼けの赤、、などなどをできるだけリアルに描いていく必要がある。このリアリズムの次元と、唯のTシャツが存在している次元は違う。難しいことばで言えばTシャツはメタ空間にある。これが僕の定義したアニメにおける「装飾」である。装飾は作品外にコミュニケーションを発生させる。次回の唯のTシャツには何の文字が書いてあるんだろう?という別次元の楽しみがひとつ増え、それについてファンたちは議論する。



ところで、装飾がコミュニケーションを発生させる瞬間というものを、ニコニコ動画においては目で確認することが出来る。
ニコニコ動画とは日本では既に一大勢力となった動画共有サイトで、動画の上に視聴者のコメントをオーバーラップさせて流すというスタイルを取っている。ここで例えば『けいおん!』を視聴し、変な文字Tを着た唯が画面に映るとどうなるか。一気に、「Tシャツww」「ロマンスwww」というだけの脊髄反射的コメントがどばっと画面上を流れるはずだ。『ピンドラ』だったら、「ちょwwwペンギンwww」等のコメントの嵐になることは想像に容易い。基本的には、変なものが現れた際にそれが変であるという指摘をする=「つっこむ」というコミュニケーションが一番多い。



さて、『けいおん!』を取り上げたことで建築の話に少し近づく。『けいおん!』の舞台である<豊郷小学校>(1937年)が、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の校舎だということ、これは非常に重要な問題を含んでいる。なぜなら、ヴォーリズは現代では稀少人種になってしまった「足し算的建築家」だったからだ。彼は最近の建築界ではほとんど黙殺されている人物である。そして、内田樹が再評価した人物である。
豊郷小学校>で一番有名な場所は「階段」である。手すりにイソップ童話の「ウサギとカメ」の小さな銅像が鎮座しているからだ。ヴォーリズは上階へ続く手すりを長い道のりに見立てて、ウサギとカメの競争を表現した。いまの建築家でこのようなことが出来る人はほとんどいない。なぜなら建築が建築たる所以は「コンセプト」や「純粋性」であり、いくら「装飾」を足しても「建物(たてもの)」はできるが「建築(けんちく)」はできない、というのが無意識的な常識となっているからである。では、このウサギとカメは建築とは関係のないものだから意味がなかったかというと、コミュニケーションのレベルでは大いに意味があるのだ。現に、竣工から72年が経ったただの学校が『けいおん!』というアニメによって選ばれ、ついでに亀のキャラクター「トンちゃん」が生まれているんだから。
ヴォーリズ建築はコミュニケーションと親和性が高い。だから、高校時代の人の触れ合いを描いた『けいおん!』において、<豊郷小学校>は6人目のバンドメンバーとして選ばれたのだ。登場人物と同じか、それ以上に、ほんとうに丁寧にその優しい表情が描かれている。


一方、視覚的ショックを与える画面を必要とする『化物語』系列のアニメ『偽物語』(2012年)では石上純也の<KAIT工房>(2008年)、三分一博志の<brood>(2005年)が出てくる。『ピンドラ』では大々的にレンゾ・ピアノリチャード・ロジャースの<ポンピドゥー・センター>(1977年)が使われている。もちろんこれらの作品は素晴らしい建築作品であり、視覚的ショックだけを目指して作られたものでは断じてない。しかし、単純な図に還元できるという点では、今後もスタイリッシュな絵作りに使われていくだろう。



というわけで、ここ2回の内容をまとめると、「アニメは装飾を用いることで多くの人の関心を引こうとする」ということだ。


なぜか?


ものすごくあたりまえだ。収益モデルがそうなっているからだ。


その6では、とてもあたりまえな話をしよう。

足し算芸術としてのアニメ(4)

◯コミュニケーションを促進する装飾だらけのアニメ
輪るピングドラム』(2011年、監督:幾原邦彦、制作:Brain's Base)TVシリーズ全24話


前回、『四畳半』『化物語』『まどマギ』『サマーウォーズ』を同じように「表現方法そのものを足し算する」として一絡げにしてしまったが、本当は前2つと後ろ2つは全然違うことに気づいた。


まどマギ』における「ふわっとした色彩の鉛筆画のような現実世界」と「グロテスクなコラージュによる魔女世界」。『サマーウォーズ』における「ジブリ的表現による田舎の風景」と「ソーシャルゲーム的表現によるバーチャル世界」。これらは「ストーリーや主たる表現と違和感を起こす要素を入れることで、強い印象・カタルシスを引き起こす」ものであり、それは例えば『新世紀エヴァンゲリオン』が残酷な戦闘シーンに対してクラシックの名曲や童話をぶつけたのと同じである。要するに、あくまで視聴者が作品内でショックを受けるための方法なのだ。これはシュルレアリスム絵画における、意外な組み合わせによってショックを与える手法=「デペイズマン(d〓paysement) 」と同じだ。なので、まとめ方を修正すると次のようになる。


A:アニメとはそもそも絵を足していかないと作れない、という意味での「足し算」→「内在的足し算性」
B:美しい画面を作るために描き込む、という意味での「足し算」→「描き込み的足し算」
C:違和感を起こす要素を組み合わせる、という意味での「足し算」→「デペイズマン的足し算」


一方、『四畳半』『化物語』そして今回取り上げる『ピンドラ』は、「ストーリーと関係なく単体で取り出して楽しめる要素を散りばめる」ために様々な表現を取り込んでいく。結論から言えば、それは作品外に視聴者の活発なコミュニケーションを発生させるべく、作品内に一種の起爆装置を埋めこむことである。例えば『化物語』でよく出てくる字だけのカット。映るのは1秒にも満たないのにやたらと長い文章が書いてある。これは動画がネット上で分析されることを前提に作りこまれている。


『ピンドラ』の作者である幾原邦彦は独特の演出で知られる監督で、難解で意味不明な部分の多いアニメを作るとの定評がある。なので、実は『ピンドラ』の作品紹介はとても難しい。だいたい、1話を見ても何のアニメかさっぱりわからない(ようにできている)のだ。ジャンルや雰囲気(ノリ)といった、普通は一作品にひとつしかないはずのものが、複数個同時存在する。シリアスなヒューマンドラマ、明るいファンタジー魔法少女もの、サスペンス、少年漫画的バトル、、一体どれがメインなのかわからないまま物語は進んでいくのだ。究極の足し算アニメだといえる。
少しずつ全貌が明かされてくると、地下鉄サリン事件と愛というテーマが見えてくる。それだけ聞くとかなり重い話のようだが、それを仮にメインコンセプトだとすると、そこから外れる要素があまりに多すぎる。魔法少女もの的変身バンクシーン、ピクトグラムで描かれる通行人、80年代ロックバンドARBの楽曲、特徴的な建築空間、紙芝居的表現、お色気要素、おしゃれなファッション、数々の決め台詞、無意味なゴキブリの繰り返し、、そして『ピンドラ』最大の謎であるペンギン! 全編を通して現れるコミカルなペンギンは、全くもって無意味。何の役にも立たないし、その割にどんな大事なシーンにも乱入してくる。というよりこのアニメ全体がペンギンのモチーフで統一されているのだが、それが何なのか全く理解出来ないのだ。


「よくわからないもの」に対しては「考察スレ」が発生し、ファンの間でコミュニケーションが生まれる。『エヴァ』が大ヒットした一つの理由でもあるだろう。しかし、それだけではない。ARBの楽曲は往年のロックファンや邦楽ロックマニアを刺激するかも知れないし、ヒロインの陽毬の着る可愛い洋服は商品化され女性ファンの購買欲を高めるかも知れないし、ペンギンはマスコットキャラとしてグッズ展開があるだろうし、決め台詞は二次創作的に利用されていくだろう。部分がコンセプトから自由であることが、より多くのコミュニケーションを生み出すのだ。ここで「部分」を「装飾」と言いかえるなら、次のようなことが言える。


「装飾とはコミュニケーション・トリガーである」


D:作品外にコミュニケーションを発生させるための「足し算」→「装飾的足し算」


もちろん、これが一番うまかったのが『エヴァ』であり(そういえばペンギンも出てきた)、GAINAXだった。彼らが得意としたパロディ・オマージュというのは、それとわかる人間に対して密かに開かれるコミュニケーションであった。お色気要素というのは、作品のコンセプトとは独立したファンサービスだった。それらは「なくてもストーリーを進められる」という意味で「装飾」なのだが、装飾がなければ話題性も生まれないと言えるだろう。



※これを見ても何もわからない


というわけで、アニメにおける足し算を4つに分類し終えたところだ。ただし、A:「内在的足し算性」はアニメそのものの性質のことを言っているので、人が操作できる足し算は「描き込み的足し算」「デペイズマン的足し算」「装飾的足し算」の3つになる。


その5へ。

足し算芸術としてのアニメ(3)

◯表現方法そのものを足し算する現代アニメ
四畳半神話大系』(2010年、原作:森見登美彦、監督:湯浅政明、制作:マッドハウスTVシリーズ全11話
魔法少女まどか☆マギカ』(2011年、原作:Magica Quartet、監督:新房昭之、制作:シャフト)TVシリーズ全12話


作画、描き込みによって素晴らしい表現に至ったアニメと比べて、今回紹介するアニメは遙かに動かない。だがこの2作品はともに「文化庁メディア芸術祭アニメーション部門」の2010年、2011年の大賞受賞作品だ。ちなみにこの賞、1997年の第1回は『もののけ姫』が大賞。以来勝ったのは常に劇場版や短編だったが、この最近の2作品だけがTVシリーズでありながら大賞を取っている。
TVシリーズというのは、時間と予算との激しい戦いである。よく絵がいつもと違う、ひどい、という回にたいして「作画崩壊」という言葉が使われるが、それは各話を並行して別の制作チームに発注したり場合によっては海外の安い労働力に頼ったりという制作方法が、運悪くクオリティに結びつかなかった例といえよう。つまり、劇場版に比べてTVシリーズというのはたいてい不完全なのであって、大賞を取るというのは少しだけ変なのである。(→関連記事 アニメ制作の海外発注についてしらべてみた。―たまごまごごはん http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20060720


見ればすぐわかることなのだが、これらの作品は従来の描き込み式足し算で勝負していない。そのかわりに彼らが取るのは、表現方法そのものの足し算である。



一枚一枚の絵がポスターのようにセンスよくデザインされている。ポスターの表現手法はころころと手を替え品を替え、新鮮な驚きを与えてくれる。
独特の構図や背景を多用するのは新房昭之監督+シャフトの『化物語』(2009年)でも同じである。この方法により、声と絵が一致している必要もなくなった。というより、どんな絵を挿入してもOK。文字だけでもOK。実写の写真でもOK。一枚一枚の絵はたいして動かなくてもいい。穿った見かたかもしれないがこれはとても経済的合理性にかなった表現手法であり、TVシリーズが大賞を取った理由でもある。ただ、重要なのはリズムである。絵の動き方、切り替えのリズムをリズミカルに行うことで、絵が動かない不満が視聴者の心に浮かぶ前に「面白い表現」と思わせることができる。
これは『化物語』のPVだが、本編でもこのような文字だけのカット、実写を使ったカット、奇妙な視点から捉えた建築物のカットや図的表現など、独特のグラフィックデザイン的な画面を随所に挿入している。大事なのは各カットの切り替えと持続時間の制御なのである。



と、考えてみたところで、これはかなり大きな違いに辿りついてしまったようだ。というのも、マクロスのような描き込み的足し算は人びとを「没頭」「感動」へ向かわせるが、これら表現方法そのものの足し算は人びとを「覚醒」「つっこみ」へと導くのだ。前者は画面に釘付けになって半開きの口ですげーとか言っていればいいのだが、後者は画面が切り替わるたびにギョッとする。そうきたか・・なんてしみじみしたりするかもしれない。ある程度、積極的に消費する態度を視聴者に求めるのだ。


一方、2011年一番のヒットといえば『まどマギ』である。こちらはある程度オーソドックスにつくられた至極まっとうなアニメなのだが、ひとつ特徴的なのは、通称「イヌカレー空間」と呼ばれる魔女の世界の表現である。「イヌカレー空間」は偏執症的なコラージュによって作られた悪夢のような空間で、これまであまり大々的にアニメで使われたことのない表現を用いているところが面白い。悪いお薬でも飲んでしまったかのような幻覚的表現と、とても戦うとは思えないほんわかしたキャラクターのミスマッチが強烈だ。
もちろん、2つの世界を行き来するような物語において、その2つの世界の表現方法が違うということは足し算以前にあたりまえのことである。大ヒットした『サマーウォーズ』(2009年、原作・監督:細田守、制作:マッドハウス)も長野県の田園風景と最新のヴァーチャル空間を行き来するのだが、2つの世界の落差がひとつの魅力だった。しかし、2つの世界を絵のスタイルごと別ものにしてしまうというのは、あくまで最近のアニメが意識的にやっている足し算のひとつだと思う。例えば5~6年前になると、夢の世界をメインテーマにしていた『パプリカ』(2006年、監督:今敏)でさえ、現実世界と夢の世界とで表現手法自体を変えてしまうことはなかった。




ひとつの表現手段の中で密度を増すことよりも異なる表現をリズミカルに切り替えていくスタイル。あるいは、見慣れた表現に異物を混在させる手法。そういった新しい足し算が主流の一角を築きつつある。


これまでのおさらいをもう一度。
A:アニメとはそもそも絵を足していかないと作れない、という意味での「足し算」
B:美しい画面を作るために描き込む、という意味での「足し算」
C:最近のアニメに顕著な、描き方そのものの「足し算」


この話はまだまだ続きます。その4へ。

足し算芸術としてのアニメ(1)

2年間アニメを見つづけた。
特別な興味もなかったけど、YouTubeで「トップをねらえ!」(1988年、GAINAX)全話無料公開中とか言っていたので、本当に何気なく見たところこれがけっこう面白く、そっからずるずると見続けてしまった。
なぜアニメにハマったのかというと、アニメとは描いたものが全てである表現であり、それがとてもスリリングで面白いからだ。
カメラを回せばとりあえず何かは映る映画やテレビ番組とは違うし、何も建てなくてもなんらかの風景がそこにある建築とも違う、描かなければ何もない、白紙、という無慈悲さ。そして、何枚も描かないとぬるぬる動かないという泥臭さ、手抜き即バレのシビアな世界。
映画なら絵になるロケーションを探し、絵になる俳優に素晴らしい演技をしてもらえば、絵になる。もちろんそこにはカメラワークやロケハン、様々なディレクションや映像加工など映画に特有の努力がない限りいい絵は作れないのだが、とはいえ、俳優の力量だとか美しい夕焼けだとか、奇跡的なものが関わってくるのが映画だ。アニメだと、大事なシーンでのキャラクターの微妙な表情だとか、頬を照らす光だとか、舞い散る桜の花びらだとか街並みだとかも、描けばあるし描かなければない。足し算していくことでしか表現が成り立たない。奇跡も作らなければ起きない。
描いて描いて絵が動き、そこに声優が命を吹き込んで作る芸術。原理的に足し算である芸術。


この2年の間に、有名どころや名作を優先したとはいえけっこうな数見た。(興味がある人だけ下の小さな文字を見てください。)
トップをねらえ!1・2、エヴァ劇場版・新劇場版、初代マクロス・愛おぼ・7・ゼロ・F・F劇場版、ナデシコTV版・劇場版、攻殻機動隊SAC1・GITS・イノセンスパトレイバー劇場版、ナディア、電脳コイル時かけサマーウォーズハルヒ1・2・消失、けいおん!1・2、まどマギ、あの花、イカ娘、秒速5センチメートルほしのこえ輪るピングドラム化物語四畳半神話大系とらドラ、電波女、うみねこ、禁書、レールガン、スカイクロラグレンラガンそれ町フラクタルクラナドクラナドAS、ひぐらし、パプリカ、スチームボーイつみきのいえラピュタ、コクリコ坂。さらに部分的に見たものを足すと、ぼくらの、らき☆すた、タイバニ、偽物、gdgd妖精s、禁書2、荒川、いろは、東のエデン、日常、FLCL

ほとんどのものは何かしら面白かった。中でも特に気になったものについて、ここで紹介したい。
好きなアニメ紹介を兼ねつつ、アニメをめぐる表現について考えたことをまとめて書いていく。単純に、2年間の熱狂をありがとう、という気持ち。

                        • -


◯GAINAXの荒唐無稽で楽しいSFアニメ
トップをねらえ!』1988年、原作:岡田斗司夫、監督:庵野秀明、制作:GAINAX OVA全6話
トップをねらえ2!』2004〜06年、原作:GAINAX、監督:鶴巻和哉、制作:GAINAX OVA全6話
天元突破グレンラガン』2007年、原作:GAINAX、監督:今石洋之、制作:GAINAX TVシリーズ全27話


個人的な好みとして、明るく楽しい宇宙を舞台にしたSFというのが一番好き。そういう時、GAINAXの上記3作品は最高だ。
GAINAXの良さは、主要メンバーの大学生時代の自主制作である伝説的アニメ「DAICON4」(1983年、DAICON FILM)に凝縮されている。



(1)圧倒的クオリティーのメカ・戦闘・爆発、(2)セクシーな美女、(3)過去作品のパロディ・オマージュ、(4)バカバカしい感じ
この4つが魅力。今回は(1)にクローズアップしてみる。

たとえばアニメーターとしての庵野秀明が得意なのは爆発である。炎、煙、爆風の吹き戻しや無数の破片の飛び散り方のあまりの凄さに「庵野爆発」とも呼ばれるらしい。現在のアニメは「サザエさん」以外はセル画ではなくCGアニメだし、物理演算を使えばもっと簡単に物の動きを表現で来てしまうのだが、どうやって手描きで、戦闘機が地面に叩きつけられたときの爆発や、ロボットが放ったレーザーで都市が吹き飛ぶ描写を描いたのか、考えるだけで震えるほどすごいことだと思う。→http://www.youtube.com/watch?v=E3-8GstXOD8


アニメをなんとなく見ているうちは、ストーリーやキャラクターといったもので面白い面白くないと判断をくだす。もちろんそれで正しい。だが、これは全て人間が手で描いたものだと意識した瞬間から、「作画」ということのすごさに気づく。アニメーションとは、目が眩むような膨大な作業の積み重ねなのだ。そのかわりに頭の中のどんなイメージでも実現できる。
そしてすぐにわかることだが、頭の中のイメージを実現するためには、その映像をまず極小時間に分解しないといけない。どうやってビルが崩れるのか、走るときに人はどこの筋肉をどう動かしているのか、ロボットの変形の手順やその動力源はどうなっているのか。世界をじっくり見ないと何一つ描けない。光も重力も物理法則も描かない限り発生しない。ついでにカメラワークも、描いた絵によって事後的に規定されるのだ(なんという逆転現象)。


最初に挙げたオススメアニメを題材に、作画というものを見てみよう。これは『トップをねらえ2!』。


続いて『天元突破グレンラガン』。


魅入ってしまう。


アニメは足し算していくことで夢を現実に変える。それは、素晴らしい風景をフレーミングするピクチャーウィンドウが引き算的であることと真逆だ。そもそも完全なる無から作る。白い壁をみて喜ぶ建築好きはいるけれど、白い画面を見て喜ぶアニメ好きはいない。白い壁はどんなに抽象的に作っても、環境の中に置かれるがゆえ、表面の微細な凸凹やばらつき、それをなめるように照らす光、微妙なグラデーション、汚れ、壁の横に広がる景色との対比、、といった環境からの干渉が必ずあり、それがただの白い壁を美しくみせるのだ。一方、画面が白いというのは、本当に無しか表さない。「画面」というものは、環境から切り離されてあるものなのである。画面上が戦いの場である様々な映像芸術のなかでも、アニメはもっとも描き込まないと(足していかないと)輝かないのである。


というわけで作品紹介ではなく作画の話になってしまった。なのでちょっと紹介。


トップをねらえ!』は庵野監督の初監督作品で、とても素晴らしいスポ根SF名作アニメ。その現代的続編『トップをねらえ2!』は緻密なSF設定をぶち壊す荒唐無稽さが魅力。トップは両作品ともエンディングの秀逸さで心に残る。『天元突破グレンラガン』はその流れの中で生まれた、荒唐無稽さとバカバカしさの極限にチャレンジした作品だ。まずロボットのデザインが筆舌に尽くしがたい阿呆らしさで素晴らしい。そして顔しかないロボットが他のロボットに突き刺さると操縦を乗っ取れるだとか、ロボットがロボットに乗り込み、そのロボットがさらにでかいロボットを操縦するとか、なかなか考えつかないくだらなさである。そして、敵を倒して、四天王を倒して、ボスを倒して、大ボスを倒して、、という少年漫画形式なので、武器もメカも技も爆発もどんどんエスカレートさせなきゃいけない。観客のもっと!もっと!という期待に全部答えてくれる。「時空烈断バーストスピニングパンチ」とか「可能時空軸一斉射撃」とかなんだよそれっていう。星を投げるのは朝飯前、投げた銀河が銀河に突き刺さる等、こちらの期待を裏切らない。28にもなってオススメしていいのかよくわからないけれど、オススメ。


その2へ。

足し算芸術としてのアニメ(2)

マクロスシリーズ
超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(1984年、原作:スタジオぬえ、監督:石黒昇河森正治、制作:タツノコプロ)劇場版
『劇場版 マクロスF』(2009年、2011年、監督:河森正治、制作:サテライト)劇場版2部作


マクロスの最も偉大な成果をひとことで言うと、「ミサイルが飛び交う宇宙とアイドルが歌う姿を重ねて映すと人は興奮する」ことに気づいた点である。


1984年、『風の谷のナウシカ』と『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と同年に封切られた『愛・おぼ』のラストシーンは、全宇宙に向けて歌姫のリン・ミンメイが歌うなかでパイロットの一条輝が敵の親玉めがけて切り込んでいくという、アニメ史に残る名シーンとして名高い。作画の限界に到達せんばかりの描き込み(前出の庵野も参加している)、ミサイルが乱舞する演出=通称「板野サーカス」、派手な映像と同期して盛り上がるアイドル曲のサビ。目と耳に届けられる過剰な「盛り上げ」によって視聴者は我を忘れてしまうのだ。


マクロスシリーズを簡単な式に表すと、「三角関係の恋愛ドラマ + 戦うより歌で敵と和解 + ロボットSF = マクロス」である。最初に挙げたオススメ以外にもマクロスプラスや7、ゼロといったTVシリーズOVAがあり、ガンダムほどではないにしろ一大サーガを築いている。
マクロスにももちろん伝えたいメッセージがあり、それが究極の形で現れたのが『マクロス7』(1994〜95年)である。主人公の熱気バサラは凄腕のパイロットであるにもかかわらず、なんと全49話で2回くらいしかミサイルを打たない。戦闘になると宇宙まででしゃばってきてコックピットでひたすら歌う。宇宙人も地球人も「あいつをどうにかしろ」と困り果てる。そんな男の話は、単純明快に「武器を捨てろ、人間が人間たる所以は武器ではなく文化なんだ」ということを伝えている。


だが僕は、メッセージよりもマクロスの娯楽としての高い完成度のほうを評価する。だから、アイドルとミサイルでお腹いっぱいにさせる、という最も俗なところで成功している『愛・おぼ』と最新作の『劇場版 マクロスF』は素晴らしい。


前にGAINAXの作画を取り上げてアニメの制作というのがそもそも足し算でしか成り立たないと言ったが、さらに人を惹きつける画面をつくるにはかなりの足し算が必要だ。爆発、星屑、光、煙、弾幕で宇宙空間(画面)を埋めていくこと。主人公の機体が手前にあったからといって、画面の右も左も奥のほうも、ただの背景ではなく何かが動いていることが必要だ。要するに描き込みである。『愛・おぼ』も『劇場版 マクロスF』もそれが完璧なのだ。
もちろん画面の隅々まで意味のある動きで満たされればすごいのだが、意味なんかなくてもいいのである。そこにはいろんな技術があると思うが、(アニメーターではない僕が知っている中で)最も手軽に画面を埋める方法として「パーティクル」というのがある。物理演算された細かい断片の動きのことで、これはAdobeのAfterEffectsなどで誰でも手軽に作ることができる。



どうしてかわからないが、人間はこれだけでも魅入ってしまう。(ちなみにセル画時代のアニメーターがすごいのはこれを手描きでやるから、と言えばわかりやすいだろう。)こんな手軽に人を惹きつけられるのだから、素人がつくる初音ミク関連のPVなんかでは多用される。パーティクルを使っているかどうかは別として、どんなジャンルの商業アニメでもいたるところでカラフルな星や光が飛び交う。1話の中で何個の星が飛んだか数えてみると、すぐに数えきれないことがわかるだろう。



色も重要だ。できるだけ多くの色を使うほうが、画面は埋まってみえる(原色である必要はもちろんない)。建築で無数の色を使うことはまれだが、アニメにおいてはできるだけカラフルなほうがいい。なぜなら、これまたアニメにおいては足し算しない限り色は増えないのに対し、建築においてはほっといても微妙なグラデーションが発生し、よく見れば無数の色が存在するからだ。むしろ安易にペンキを塗ることで、白のうちに無数の色を見る機会を減らすことになってしまう。
それからブラー(被写体ブレ)も重要だ。明るい色とブラーを組み合わせると眩しい光になる。これはフォトショップなどを持っている人であれば試すとよいが、写真を取り込んで画面全体をコピーして、片方にブラーをかける。続いてブラーがかかったレイヤの透明度を半分くらいに落として、元の絵に薄く重ねる。すると天国的な多幸感につつまれる。ブラーをつかうことで微細な距離でのグラデーションが発生し、そこに無限に微分可能な色のスペクトルが生まれる。これを美しい少女の白い肌に対して用いれば、純粋で神々しく、誰もが恋に落ちてしまう絵の完成である。


ここまでをまとめると、
A:アニメとはそもそも絵を足していかないと作れない、という意味での「足し算」
B:美しい画面を作るために必要な「足し算」
というのが存在する。


これらを踏まえて『マクロスF』の戦闘シーンのごく一部を見てみよう。マクロスらしいミサイルの演出、「板野サーカス」部分。



十分楽しいがこれはTV版。映画版の戦闘シーンは大スクリーンを光と煙と爆発で埋めるため、これの比ではないほど豪華に足し算するのだ。

「絵でしかないアニメでも、いろんな要素を掛け合わせて、密度を上げていけば、頭でなく心や魂をダイレクトに揺さぶる領域に達することができる」
「エンターテインメントの臨界点を超える」
「歌、セリフ、SE、映像が全部ミックスされたとき、一種の感覚洪水が起きるように試みている」(河森正治)-Wikipediaより孫引き


『劇場版 マクロスF』のラストバトルは足し算の臨界を超える。


その3

考える建築店2!

最初の記事を書いてから3年が経った。去年1年書いていないとはいえもう3年。
気づけばサブカルブログと化し、それでも建築だとかろうじてブログタイトルだけが主張する始末。
この人大丈夫か?と、そろそろ誰もついてこなくなってきた所で再度建築の方向へ舵を取ることに決定、当ブログは「考える建築店2」となった。


・・・なにこの口調。
とにかく、建築のことと音楽のこと、アニメのこと、アートのこと、いろんな考えていること。このブログのなかで断絶していると思われる記事と記事が全て、見えない糸でつながっていくような、そのような事態になってきた。
それを、とある場所で、意外な形で多くの人に届けられるかもしれない。(まだ言えませんが)
なので「考える建築店2」は拡散し分裂してきたこれまでの自分を一度まとめあげるものにしようと思う。
とはいえこれからも変なこと面白いことをベースに続けていくつもりなので、何卒よろしくお願いします。


あと、ブックマーク、ツイッター、いいね!ボタンをつけたのでご活用していただけると喜びます。


ちなみに左上のアイコンは、はっとりといえば忍者だよなー手裏剣だよなーシュッシュッっと作ってみました。ダサいですね!

季節外れの音楽でもどうぞ

去年作った音楽で、個人的に一番気に入っているものです。
なんというか、空気感が一番よく表現できた。動画じゃないんで絵なんか見なくていいです。
目をつむって、ぜひ。


『なつおわ』 - 声の出演:初音ミク



窓を開けて蝉の声を録りながらギターを調弦したり適当に弾いてます。
ピアノは家で練習してるヘタな人風にしました。実際下手ですが。
声にはミクを起用。微妙な人肌と機械のそっけなさが、こういう曲にマッチします。




同じ曲を少し違った角度から。セルフリミックスです。


『Natsu-Owa remix』 - 声の出演:初音ミク



生音系のドラムループにスタッター(Stutter)というエフェクトをかけています。
「Stutter」とは「どもる、口ごもる」という意味です。音をぶつ切りにして部分的に繰り返したりリズムをずらしたりする、ブレイクコア等ではお馴染みの手法です。
たとえばこれの3分過ぎから。


『Hajnal』 - Venetian Snares



この脳が裂け鼻血が飛び出るようなやり過ぎ感いいですね。
もういっちょ。次はFFメインテーマみたいな始まりで心奪われます。



『Among the Pines』 - Wisp



ブレイクコアの基本はやり過ぎ感です。いかに複雑なビートをつくるか。
さすがにバカだろwwとかいって楽しむんだと思います。それではまた!息抜き記事でした!