老若雑感

今、はなかなか考えられなかったような未来に来た気がするけど、とはいえ明治生まれの人だって生きている程度の未来です。
長寿命は、なかなか日本の機動力にきびきびとした動きを許しません。もし寿命が40年だったら、国民の大半がブログやツイッターに馴れていたりして、解決したいいろんなことがもっと早いサイクルで動くんじゃないでしょうか。
若者はいつだって大事なところを年配者に握られていて、それをどうしたものかと考える。100年分の価値観が同居するもんだから大変です。こんなに革新的な発想があってツールがあるのに、どっから手をつけてよいのやらという感じです。
長寿命は、(口に出したらまずいけど)フツーに考えたら若者の敵なのです。


人口一億人も、敵だか見方だかわからないところがあります。人口が増えれば増えるほど賛同者もみつかりやすく文殊の知恵になりやすい。けれど同じだけ反対者がいたり、無関心がいたり、大御所がいたり、権威がいたり、馬鹿がいたり、と大変です。まぁ、一億人のOKを得るよりは十人のOKを得る方が簡単な気がします。
というわけで人口一億人も、世界を変えたい若者の敵です。


けれどもけれども、僕は小さな国や寿命が短い国に生まれなくてよかったと思う。
すぐに国民の総意が取れて短いサイクルでいろんなことが変わるというのはめんどくさい。技術は物凄いスピードで進化していくけれど、同じスピードで政治や憲法が変わっていくような国でなくてよかったと思います。
こういうのをリダンダンシーと呼ぶかどうかは知りませんが、年老いた層というのがいい感じに優雅でいてくれて、若者の新陳代謝パワーを包み込んでくれる社会というのがいいんじゃないかと思います。老いと若さがいい感じでバランスした社会で、少しずつ時間をかけて変化する、というのが安全です。


いま少し残念なのは、「老い」がそのように「若さ」との二大勢力なんだよっていう理解のされかたをしていないことです。それは「老い」の側の人においても。
「若さ」が泥臭いロジックで攻めてくるなら、「老い」は優雅なレトリックで返せばいい。僕はどっちも好きだ。だからどの年代の人もその時代に磨いた武器でガヤガヤ言ってる状態がベストです。
そういう意味で少子化でバランスが崩れるとあんまりよくないなぁとも思います。


若い僕がこういう現状肯定してていいのん?という反応があるかも知れませんが、それは逆で、ようするにまだまだ老人がうるさい社会なので、安心して全力でやっつけに行こうという話でした。なんのことやら。