構造主義がいまなんとなくわかったよレヴィ

最近、いろいろなものに対して簡単に批判はできないし、すべきではない、という気がしてきた。


前にイラッときて勢いにまかせて東批判を書いたりした(「批評家はだれだ!:『思想地図vol.3』東浩紀・北田暁大編」)けど、それも少し後悔している。
へんな話だけど、ついったーをやっていて東浩紀をフォローしているのだけど、彼は朝7時とかから政治に対する意見をつぶやいている。なぜか単純にすごいなぁと思ったのだった。
まぁ過去に書いたものはそのときの感情としては間違っていないし、自分なりに論理的に書こうとつとめたものだし、いつかの自分を見つめられるという意味で消すべきじゃないと思うのでそのままで。
とはいえたぶん将来もかなり距離をとるんだろうなー。でも、それと一部しか知らないで批判するのとは別。批判って、書いたあと気持ち悪いのだよ。批判を書いて気分よくなる人がいたら怖いと思う。



妹島和世という建築家のつくるものは、昔はとりあえずやんわり嫌っていた。(それは流行に対して「みんなが好きならおれは嫌いだ」というしょうもない感情が多分にあった)。
今思えば、妹島的美観、価値観が世間に全然共有されていなかったら、そんなふうに食わず嫌いしたかどうか。。
というか、実は自分も何か共鳴するところがあるから、躍起になって批判したり無視したりしようとするのだ(ここには「他人を認めることは自己を喪失することだ」という変な思いこみがあり、これが「自己」が「ある」という幻想を立ち上げている)。
むしろ、そこまで現代の若い建築家に影響を与えているんだから、学んだら面白いに決まっているんじゃないかと今になって思う。
もちろん僕は妹島建築を少ないながらにいくつか(5つ?)見ているし、違和感を覚えたものはあった。でも、そういうものに出くわしたときに、そのときそのときの価値観でなにか結論めいたものを断定して、それで消化したとか乗り越えたとか永久に相容れないとか言うのはあまり建設的な態度ではないと思う。
むしろ、彼/彼女が「どのようなその人固有の問い」を持っていてそれに「どのように答えようとしているか」というのを中立的に見ると面白い。それは「戦う人間」のケーススタディになるし、その人をとりまくコンテクスト(時代ももちろん)の理解にもつながる。


というあたりまえのことに気づく。


鈴木博之先生の退官を記念した『近代建築論講義』を最近読んだら、横手義洋さんが「いつからか(近代からだっけ?いま手元に本がない)建築論は直近の過去の批判という形ではじめるようになった」というようなことを書いていた。なんとなく今それを思い出した。
なにかを発言するときに自らの寄って立つところがないのは不安だ。だから直近の過去を杖としてつかいながら、そのことを忘れたふりをして批判する。そういうやりかたの「ダサさ」は、おそらく思想史的にはもう十分に指摘されてきてるんだろうけれど、案外、市井の人間の思考形式は塗り替えられていない。(というかたぶん永遠に塗り替えられることはない。なぜならそれは知的負荷が小さく済むお手軽ツールからだ。気を抜けばひとは楽をする。ぼくなどは特に。)
こういう論法が有効でないとは言わないけれど、どこかトートロジー(あるいは独り芝居)に近いものがある。参照される過去は往々にして恣意的に取捨選択されたものであり、内燃機関の燃料としてしか使い道がないかのようだ。過去はもっと「他者」として見てみたい。


『批評としての建築』で八束はじめは、篠原スクールをとりまく言説の自己充足的な態度を批判した。当時、篠原一男大好き人間は「建築は建築固有のことばで語るべきだ」「建築は自由になった」と言って晴れやかな気分になっていた。実はいかなる外部からの(このときは記号論からの)解釈をも拒絶しており、建築外的な思考を放棄することでこれは可能であったのだが、そのことは彼らにしてきれいさっぱり忘れられていた(篠原は麻薬だ。僕も『住宅論』を読んでハイになったことがある。ただ、篠原の建築がそうしたフォロワーを生み出すほどの強度に満ちていたこともまた事実だ)。トートロジーは無限の自由を保障する媚薬だ。「芸術のための芸術」という古い陥穽は、ことあるごとにぶり返す。
こうした思考を批判するにあたり八束は「モダニズムとはなんだったのか」というところまで遡航して、そのもっとも純粋な形をレオニドフやテラーニなどに見いだし、その挑戦と挫折の価値を取り出すことで、そこから逆照射するかたちで篠原をめぐる言説の無意味さを暴いた。当時とりあえず批判の的になっていたモダニズムをもう一回点検し、評価できる部分と、モダニズムそのものが孕んでいた危険性を同時に指摘した。
そう、ここまでしっかりやらないと批判はできない。批判というのは、誰にでも認められている権利のようで、そうそうフツーの人間ができる行為ではないのだ。
だから僕は、いまのところ、人を批判するのはやめることにした。


‥‥‥‥‥というか、
むしろ実は、「どんな人からもいいところを学ぶ」ということをやってるだけで、嫌な気分にならずに批評ができるんでない?
と思ったのだ。


あ!‥‥つまり構造主義でした。
すごいな。。レヴィ・ストロース登場したよ。。


構造主義」=「どんな人からもいいところを学ぶ」 だった!


※2009/11/21 追記
最後のところがTwitter上で「どゆこと?」と指摘されたので。
レヴィ・ストロースは未開人にも彼らなりの合理的な思考があることを発見して、近代人一般(とくに当時強かったサルトル実存主義)を相対化してしまった。
それと「どんな人からもいいところを学ぶ」というのは似ていませんか?


それにしても、Twitterで反応があるかわりにコメント欄にコメントが届かなくなる現象は少し寂しい。