理念 +

いまさら「理念」に書き加えるとも思っていなかったのですが、昨晩『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹、文春新書)を(おそらく3回目くらいですが)読み終えて、少しばかり感動してしまいました。僕がいいな、と思ったのは「あとがき」です。


レヴィナスという師匠に一生ついていく、一生追いかけていく。学ばせていただいたことを自分なりに一所懸命に理解しようとし、少しでも追いついていくことで恩義のおかえしをする。内田先生の数ある著書のなかでも、僕はやっぱり専門的な内容を扱ったものが好きだ。そこには、こうした師匠愛、そして師弟愛(レヴィナスから届いた手紙の話はとても美しい)が歴然とあって、読んでいて気持ちがいい。と同時に、いいなぁ、と思うのだ。
現代人の一番のかなしみは「師匠」を失っていること、あるいは「弟子」を失っていることなんじゃないかと思います。僕らは20代の頃から未熟であってはならず、自分に従い、自分を世界に売り出さなきゃいけない。淘汰圧は激しく、どのジャンルでも新人賞はどんどん若年齢化し、社交界入りの切符をめざしてみんなが殺到する。僕自身も、気づけば「いかに効率よく"建築家"になるか」ばかり考えていたりする。「はやく一人前にならなきゃ」あるいは「僕はもう一人前だ」という気持ちだけがあって、一生涯を捧げてもいい師匠だとか、どんなに考えても飽きない問いだとか、そういうものに出会うことなく「大人」らしきものになっていく。
ほんとうに、そういうことはどうでもいいなぁ、と思ったのです。たぶんこれは孤独への入り口です。今すぐに結果が出るものではないから。でも孤独であればこそ「自分が満足すること」以上の喜びがあるはずだと思います。なにかが完成したときに「やった、自分の思い通りにいったぜ」とか「これで自分の才能を世に問える」と思うよりも、自分が本当に尊敬する人に一言「ふむふむ、まぁ少しはわかってきたようですね」と言われる方がずっといい。身震いする。


僕はなかなか「建築」に辿り着かないかも知れない。とか言っておいてさっさと建築家レースにのめり込んで行くのかも知れない(その危険性は拭えない)。わからないけれど、少なくとも昨晩は、もう少し「息の長いパートナー」を探したいなと思ったのです。みんなが師匠を知らない世界では、世代を超えて伝えられることもなくなり、そういう学問はゆくゆく消えるのでしょう。しっかりと学び、いずれ教える。そういう循環に身を置きたいと思ったので、僕を取り巻く時間は今後おそらく「ゆっくり」になっていくんだろうと思います。