理念 改

理念に「改」があっていいのかというと、よし、です。というのは僕は「建築家の本はつまらん」と書いてしまったのですが、これはよくないなと思い直したのです。

「〜はつまらん、だから僕は真似したくない」
「〜は間違いだ、そのせいで僕らは被害を被っている」
「〜は終わった、次の時代はこうだ」

というような論法は、なにかを主張したいときによく使われるし便利なのですが、なんだか"20世紀的"臭いがぷんぷんするのです。"21世紀的文章"を掲げておきながら、すぐ次のエントリーで全く逆のことを書いてしまいました。ちょっと気がゆるむと"20世紀"はぶり返します。困ったものです。


建築家が書く本には「プロモーション」の意味合いが強い、というのは仕方ないことです。僕自身が書くことを想像しても「そりゃそうなっちゃうだろう」という気がします。だから、建築家の書く本をそのままに読んだら「なんか違うよなー」という不満が出てきて、「つまらなかった」で終わってしまいます。そういうとき僕は読書をしているようで、「この人は自分とうまが合う/この人は自分とうまが合わない」という判断をしているだけなのです。これは読み方が悪い。こんな悪い読み方で建築本に接してきたのかと思うと、我ながら自分のあほさに愕然とします。ではどうやったら有意義な読書ができるのかと考えたら、次のようになりました。

・この人はなぜこれを書かなきゃいけなかったのか
・この人は何を(意識的に)書いていないか
・どういう言葉遣いで書いているか etc..

これらは「読んでいる自分」を登場させないという方法です。書いていて「なんだようするに正当な"批評"じゃん」という気がしてきました。建築家の本も建築史家の本も、なにか「ねらい=aim」があって書かれたものは全て「選択的に何かを語り/何かについては語らない」ということをします。そこを解明する、というのは正しい読書だと思います。


もうひとつは、

・なぜこれを読んで自分は感動したのか
・なぜこれを読んで自分は厭だなぁと思ったのか
・なぜこれを読んで理解ができなかったのか etc..

です。これらは「読んでいる自分」が読むことによってどういうリアクションをしたのか、それはなぜ起きたのかを検証する読みかたです。こうやって読めば「確固たる自分」なんていう幻想を捨てれるし、自分のばかさ加減がよくわかると思います。自分のばかさを知ることが知性だということは内田樹から学びました。


というわけで、こういう風に考えながらこのサイトを運営していきたいと思います。「理念」にやたら時間を割いていますが、今後このサイトを自分のプラットフォームとして使っていく僕にとってはここで間違えると全部ぱぁになってしまうので、慎重に慎重を重ねているのです。それでは、よろしく。